演出家の種類とその仕事

舞台の演出家には、大まかに二種類のタイプがあるように思います。



一つは、役者との共同作業を重んじる演出家。
作品全体の世界観を定めたら、詳細は役者自身の解釈に委ね、
後は、演者同士の感性のぶつかり合いが生み出す
化学反応をまとめて、指揮していくタイプです。


例えれば、完成形を想像して、適所に適材の種を蒔きますが、
後に植物の育ち具合によって、育つ軌道を修正したり、
水やりの方法を変えたりして
美しい庭を作り上げていく、庭師のようなものです。


完成形が、開幕初日まで予想しにくい難点がありますが、
時には、演出家が想像していたもの以上に
素晴らしい作品が生まれることも多々あるようです。



もう一つは、舞台での役者の配置構成、作品解釈、
キャラクターの姿・動きなど、何から何まで
ほぼすべて自分でイメージを固め、それを、役者という駒を使って
舞台上に再現させるタイプ。


こちらは、イメージに合った切り花を適所に置いていく
フラワーアレンジメントに近いように思います。


絵図面を舞台上に再現するような形ですから、
リスクと失敗が非常に少なく、興行として成功しなければならない
商業的演劇に好まれるスタイルでしょうか。



作品によって、スタイルを変える演出家も、また
両者の気質を併せ持った演出家も、多数いるはずですから、
一概には言えませんが、傾向として、
英国をはじめとする欧州の舞台では前者スタイルが、
米国文化圏の舞台では、後者スタイルがポピュラーなようです。




さて、話題変わりまして、演者です。
役者にも、大まかに二種類ありまして、
自身で解釈し、役柄と作品世界をじっくり作りこんでいく職人タイプと、
演出家に言われるがままに役を演じるタイプとに、わかれるのですね。


職業役者は、どんなスタイルの演出家とも
上手く仕事をこなしていかなければならず、
好き嫌いなど言ってはいられませんが
やはり相性の良い、役者と演出家の組み合わせはあるわけです。


当然、前者タイプ演出家には、作りこんでいくタイプの役者が、
後者タイプ演出家には、言われるがままに演じるタイプの役者が合いますよね。



例えば、役者に解釈と想像という仕事を課す、前者タイプの演出家の下に、
演技を指示されることに慣れた役者が来てしまいますと、
役者は、指示を貰えず途方に暮れることになりますし、
また演出家も、役者がすべき仕事をしないことに、
ひたすら呆れかえる、ということになってしまうようです。



一方、全てを自らの望むように作りたい後者タイプの演出家の下に、
作りこむ役者(職人役者)が来たりしますと、何しろ演出家が、
役者に「解釈の仕事」をさせませんし、仮にさせたとしても
双方の解釈が、異なる場合がほとんどですから、
リハーサルを通して両者がぶつかり合うことが多い。
(が、この場合、役者が「仕事」と割り切って、
演出家の望むように演技を仕上げていくことが一般的のようです。)



勿論、どちらが良い悪いという事ではありませんし、
相性の良い両者の組み合わせでなければ
素晴らしい作品が生まれない、ということでもないのですが、
全てが、あるべき、良い方向にぴたりと合った時に、
やはり歴史に残るような名作が生まれるのだと思います。




……さて、ここからの話題は、先日観劇に訪れました「金閣寺」です。
まだご覧になっていない方は、全体の印象の他、
少々内容にも触れますので、ご注意を。







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個人的な観劇後の印象は、一言で言いますと
「もったいない」でしょうか。


実は、森田さんを、「作りこんでいく役者」の資質がある方と考えています。
そして、作品そのものは、後者タイプの演出家の作品と映ったのですね。



宮本亜門さんの作品は、過去、一作品しか見たことがないのですが、
その印象がとても良く、また時折、雑誌記事に読む、
演出への向き合い方の潔さに、共感を覚えていましたので、
神奈川芸術劇場こけら落とし公演、三島由紀夫金閣寺」には
とても興味を覚えていたわけです。


また、森田さんをその主人公に抜擢したことに、
「なるほど、やられた!」と思わされ、
そのためか、この作品が、蓋を開けてみますと、
後者タイプの演出作品だったことが、とても意外でした。



数年前、「春琴」という谷崎潤一郎の作品を、
英国の劇団「Complecite」が、日本の劇団と共同で
舞台化したものを、縁あって、見る機会があったのですが、
実は、それと非常に印象が重なります。


考えてみますと、この「金閣寺」も、舞台脚本原案が外国の方ですね。
もしかして、昭和文学を外国人の観点から解釈し、
日本人が演じると、双方の言語・舞台感覚の違いから、
こういった形のものが出来上がるのかもしれません。


両作品とも、言葉(ナレーション)、台詞、動き、光、映像、音が
詰め込まれ過ぎていて、この目には、全体的にばらばらに映ったのですね。
観客に、解釈の余地や、余韻を感じる間を
あまり残してくれていないようにも感じました。
何と言いますか、「金閣寺」(又は春琴抄)という作品の奥底にあるものと、
演出スタイルの目指したもの、言葉、そしてそれを演じる役者の「あり方」が
どこかチグハグで微妙に合っていない感じ、というのでしょうか。
宮本亜門さんが、なぜ、この作品・このキャストで
この演出スタイルを選ばれたのかは、とても興味深いところです。



勿論、全体的な完成度は高く、こういった作品をどう受け止めるかは、
本当に個人の好みの問題ですから
「良かった!凄かった!」と感じた方も、数多くいるはずです。




森田さんの話題に戻ります。



「もったいない」、ということを説明いたしますと、
今回の演出では、役者の「演じる」べき部分というのが、
非常に切れ切れで、全ての役者が、
「芝居を通じての演技の流れ」というものを
作らせてもらえていなかったように感じるのですね。


勿論、役者全員が、作品全体の映像の「駒」に徹すべき
演出スタイルでしたので、当然そうあるべきですし、
主役である森田さんも、そのように徹していたのですよね。


そして、森田さんという演者は、演出家の望むことを感じ取って、
体現することに(も)秀でている印象があり、一見したところ、
「言われるがままに演じる」タイプであるように思えます。


が、前述のように、個人的には、森田さんは、
言葉で聴かせ、演技で観客を引きつけることのできる、
「作りこむタイプの役者」に化ける可能性が、
多分にある方だと考えています。そして、金閣寺の主人公は、
そういう役者が演じて然るべき役どころ。


その可能性に満ちたコンビネーションが、
今回、演出上の一つの「駒」とならざるを得なかったところが
「もったいな」かったのですね。


演者が、場面を、空間を、感情の高まりを作りかけては、
音と映像と光とに全てを壊されるという繰返しを見ることは、
演者の演技を重んじたい人間には、少々苦痛だったようにも思います。
もっともっと、「演技」が見たかったのです。


ただ、そんな中、今回、森田さんが
「stage presence」などと呼ばれる能力の類で、遺憾無くその才能を発揮し、
ふっと空間を支配したように感じた瞬間がありました。
三階席にいましたが、舞台上の溝口の姿が、沸き起こるように大きく広がり
目に飛び込んできて、ゾクリとしました。


……が、秘すれば花、ということで、どこの場面かは
書かずにおきますね。意地が悪いかしら(笑)。



ご覧になった方は、どのように思われましたか……?



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