「金閣寺」

ずっと書くタイミングを見つけられずにいましたが、
あまり遅くなり過ぎないうちに……。


先日(と言っても、もう二週間前なのですね。ごめんなさい)、思いがけず、
舞台「金閣寺」の最終公演にお誘いいただき、行って参りました。
(また、偶然のこととはいえ、地震直後の緊張感漂う東京と、
普段通りの大阪を一日の内に見る、という不思議な体験もしてきました。)


お誘いくださった方が、きっと「NY公演の決まった舞台」という観点からの感想に
ご興味をお持ちなのだと察しましたので、今回は、米国NYの観客が、
この舞台をどう捉えそうかしら、という目で観劇してまいりました。
先にお断りしておきますが、少し辛口、と思います……。
ので、「それはちょっと」と思われる方は、お気をつけくださいね……。




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この「金閣寺」の舞台は、2月上旬に一度観劇し、以前も書きましたが、
その時の感想は、「ちぐはぐ」と「もったいない」でした。


が、舞台が「初日、とにかくぶっつけ本番で」というのは多々あることで、
そういう場合、最初、荒削りだったものが、変化を続け、
最終的にはとても良い作品にまとまっていた、となることがあるのですよね。
不安定なカギザキ形だったものが、いつの間にか、きれいな星形になっている、
という感じでしょうか。何度か見に行かれた方の感想から、
どうやら初日まで色々と試行錯誤を続けていたらしい「金閣寺」も、
そのパターンだったのでは、と想像していました。



が、先日の最終公演を見た限り、ですが、全体の「ちぐはぐ」という印象は、
まったく変わっていないように、この目には映りました。
どころか、却って助長されているのではないかしら、と。
全体的に全てがスムーズになった分、なんと言いますか、
カギザキ形が、そのまま磨かれてしまった、という感じ。



脇を固める人々の質で、舞台作品がプロのものかアマチュアのものかが
決まるとは思いますが、作品そのものの印象を決めるものは、やはり
演出と主演者たちです。ですので、脇を固める幾人かの名優の方々のことは、
「演出」の中に含めて論点から外し、ホーミー奏者を含む全体の演出と、
三人のメイン俳優たち(溝口とその二人の友人)について語らせて下さい。



まず、「溝口」が芝居全体から浮いてしまっているように感じました。
どういうことかと言いますと、森田さんを除き、芝居全体は
より「ライト・エンターテインメント」という方向に
向かったように見えたのですね。そして、その方向に磨かれていった、と。
が、逆に「溝口」は、どんどん深みを増し磨かれたように見えたのです。


これは、舞台芸術に携わる者の目から見ますと、
本当に難しい問題と映りました。
「宮本演出公演=ショウ」という観点から考えますと、
森田さんが全体の流れから外れてしまっているのですけれど、
金閣寺」という作品の本質を見極めて表現する、という点から考えますと、
森田さんの方向が正しい。



で、単純な結論としては、言葉は悪いですが、やはり演出の失敗、
ということになってしまうのではないかしら……。
それこそ、最初の時点での、全体の演出の方向性の判断が
的確ではなかったように、この目には映ります。


もし最初からエンターテインメント・ショウ的な作品に仕上げたいのならば、
この題材・主演役者を選ぶことは正しかったとは思えません。
そして、この題材・主演者を選んだのなら、ショウ的な演出を選ぶことは
やはり最良ではなかったように感じます。


決定的なちぐはぐさは、その根本にあるのではないかしら。それが、
公演を重ねるにつれ、浮き彫りになっていったのではないかと察します。
ですから、ショウとして楽しもうとしていると、
溝口の場面が醸し出す深みと重みに、つっかかってしまう。
溝口の心情に引き込まれると、突如ショウが始まり、
拍子抜けしてしまう。その繰り返しでした。



この演出スタイルで、この役どころを演じねばならないのですから、
役者としての森田さんの力量は並大抵のものではないと感じます。
本当に、本当に頭が下がります。



ただ、場面が主に「ライト・エンターテインメント」になった時、
森田さんは「溝口」ではなく、「森田さん」になっている時が
あったように思います。これはもう仕方のないことなのかもしれませんが、
何と言いますか、ふとした動きが、「かっこいい」のですね。
これが、「森田さん」を知らない観客には、少々混乱を招きます。


演出そのものが、そうせざるを得ない、あたりまで、
演者を追いこんでいるのかもしれません。
どうしても「溝口」の行動ではないようなことを、
全体の流れの中で演じなければならない場面がありましたから……。
ですから、もしかして、演者が、ここは演じる部分、
ここはショウ、と割り切っているのかもしれません。
が、やはり、初めてこの舞台を見る観客は、混乱してしまいますね。


とても大変なこととは思いますが、「溝口」のままで抜く、
という方法を見つけられれば、もっと楽になるのではないかしら。
その辺り、演出家の方はどう考えているのか、不思議に思います。


重厚な作品の中に、笑いの場面を織り込むことは、勿論必要な事ですが、
「溝口」という人物の行動からかけ離れた事を、本来、演出家は
役者にやらせるべきではないと考えます。また、時に役者が役者として、
役柄から離れ、観客にサービスをすることもあって良いのですが、
それも、舞台に在る役者全員が、オンとオフを同時に切り替える、という
暗黙の了解がないと、成り立たないのですね。今回、残念ながら
そのオンとオフの切り替えが、ないようでした。ですから、
一般の観客は、全体的になんとなく「混乱」してしまう訳ですね。



文化と言葉が違う観客相手ならば、尚更と思います。



普通、同じ内容の舞台でも、公演する国ごとに、その国の観客に合わせ
少し表現方法を変えるはずですので(国によって観客の種類といいますか、
観客の「舞台芸術」に期待するものが違うのですね)、勿論、
これからNY公演に向けて、様々な調整をされるとは思いますが、
今回観劇した舞台が、例えば記者招待公演だったと仮定して、
以下、NY公演での受け取られ方として、
想像できることを、幾つかあげてみますね。



英国では、恐らく受け入れられるのが難しい類の舞台ですが、
米国は、一般的に「エンターテインメント・ショウ」を好むようです。
そういった点で、NYで、受け入れられる可能性は
半々ではないかしら、と思います。


内容が追いにくい・分かりにくい点を、ナレーションの英訳と解説とで
上手く補足した上で(折角台本原文が英語なのですから)、
観客が、全体に浮き彫りになっている「混乱」を、
日本的「曖昧さ」という美徳として受け取ってくれるならば、
ある種の好評が得られるかもしれません。
(言い方が、回りくどいかしら……)


また、映像や光、音などの表現を含む視覚的な演出を、日本的で
ミステリアスなエンターテインメント・ショウと、
好意的に捉える人もいるかもしれません。
これは、多分に見る人の好みによるのではないかと思います。


もしくは、演出や内容はよくわからなかったが、という前置きがあって、
主演俳優の演技に焦点を置いた好意的な評が出るようにも思います。



が、何かを少し変えて、何らかの統一感を出さない限り、
全体としては、少々微妙なところ、ということになってしまうのでは、
と感じます。勿論、杞憂であるとよいのですが……。



特に、まだ7月あたりですと、この大災害の印象というものが、
まだ人々の記憶の中に新しく残っているはずで、
「日本からきた作品」というだけで、その同情と言いますか、
応援する気持ちと言いますか、ある意味、敬意・仲間意識なども、
観客の、作品を見る目の中に入ってくると思います。これまで以上に、
「日本」を代表する存在として見られるはずなのですね。


そんな中での、こういった内容ですから(状況が状況ですので、
たぶん批判評を受けることはないのではないかと察しますが)、
「Puzzled=訳が分からなかった」と感じる人々、
また数人の演者の発する、甲高い、意味の分かりにくい「笑い声」や、
アメリカ兵の場面に、不快感を覚える観客も、
少なからずいるかもしれないと思います。



と、長々とごく独断的な評を続けて参りましたが、どうか、
あくまで、個人的な感想として、読み流して下さいね……。



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