シフト=蘇生

私事ですが、このゴールデンウィークで、V6というグループを知ってから、
約一年が経ちました。昨年のこの時期に、たまたまコンサートに
行く機会に恵まれた姉が、「予習」と称して数々の映像を見ているのを
横目で眺めていたのが最初ですが、「腑に落ちる」ものを見る
心地よさから始まり、すぐに、その魅力的な作品に引き込まれていく
ことになったのは、今までにも何度か綴った通りです。



以来、V6というグループは、不思議に大切な存在となりました。
勿論、ファンになったのですが、それだけではなく、映像を見ていて、
この頭の中にある、一人では形になりにくい「芝居」というものを、
この人々ならば、見事に体現してくれるのではないかしら、と感じたのを、
今でもはっきりと覚えています。この裏ブログでも、時々、
V6にシェイクスピア劇を勧めてしまう理由です。
なんだか、大げさに聞こえるかもしれませんけれど……。




芝居や歌という、身体と言葉とを使った芸術というものは、人間の
感情と生活とに直結する「作りもの」であるがゆえに、本来、
人々の「考える力」や「見極める力」を喚起するものなのだと思います。
そして、人々の想像を掻き立てるものであるがゆえに、それ自体は
しっかりと地に足をおろし、現実的であるべきもの。けれども、
作りものであるがゆえに、どこかひたすら楽観的で、
生きる希望を生み出すような、軽妙さと明るさを持っているもの。



現実と空想の狭間を行き来する、独特の「娯楽」です。




英国は、シェイクスピアという類まれな才を持つ劇作家がいたおかげか、
それとも元々の国民性なのか、この、現実と空想の狭間にある
「芝居」という娯楽芸術を、絶妙なバランスで日々の生活に
取り入れているように思います。
シェイクスピアの「As You Like It」という芝居の中に、



  All the world a stage,
  and all the men and women merely players,
 
  (この世は全て舞台なり、
    して、あらゆる男女も皆ただの役者に過ぎぬ。)



という有名な台詞がありますが、まさにその土壌があって、
日常生活そのものも、どこか芝居的です。が、もともと「芝居」が、
とても現実的なため、芝居的であっても「現実」が浮つくことは
少ないようです。現実はどこまでも現実であろうとするのですね。
むしろ、空想も現実の一部として受け入れてしまっている気すらします。



例えば、英国内で、政治的な出来事が、まるで芝居のようだと
評されることがありますが、これは、英国における「芝居」が、
現実を反映させるものだからこそ出てくる表現で、決して
「現実の政治」が「芝居パフォーマンス」に取って代わられている、
という事を意味しているのではないと思います。


現実の出来事を、楽観的に捉えようとする英国人の感性が、
「この世は全て芝居に過ぎない」と達観する心境に繋がり、
人々は、自然と、観客が芝居を眺めるように、ごく客観的に
冷静に、「現実」を捉えることが出来るのかもしれません。


人々が安易にメディアの影響を受けるのは、どの国でも同じですが、
英国という国には、社会全体が「実」を忘れて浮つく、
という事態に陥りにくい土壌が、今もあるように思います。




では、日本はどうなのかしら、と考えた時、どういうわけか近頃、
胸が潰れるように痛みます。


この国では、今、政治と芝居という二つの存在の持つ「質」が、
驚くほど似ているように感じます。メディアという媒体を使って、
本物ではない「〜ふう」の人々が、芝居ごっこ
政治ごっこをしている印象があるのです。


政治がとても芝居じみて見えますが、英国の場合とは異なり、
「現実の政治」が「芝居パフォーマンス」にとって代わられている
ように感じます。特に映像を通した時、「政治ごっこ」と、
本物の政治とが区別されておらず、同列に並べられてしまっているよう。


そして「虚」を咎められないが為に、多くの「政治家ふう」の人々が、
堂々と政治ごっこを楽しんでいるように思えてなりません。


政治家というのは、本来、「国を治める」責任を担う人々と
思うのですが、我欲を捨て、その本分を全うしようとする
本物の「政治家」が、今、この国にどれほどいるのでしょうか。




思えば、たった一日という時間の中で、二万を超す人々の命が
失われたのです。それは、「ごっこ」の中で扱うことが許されるほど
軽い出来事なのでしょうか。福島の原発では、今も
放射能の中で作業を続ける人々がいて、瓦礫の山の中には、
今も数千もの朽ちてゆく身体があり、その現実と、今も様々な意味で
向き合っている人々がいる、という事実は、今、この国で
政治家と名乗る人々にとって、それほどまでに軽いものなのでしょうか。



いつのまにか、この未曾有の大災害は、「天下りの大企業が起こした
原発事故」にすり替えられ、いつの間にか「東電」という憎しみの対象が
作り出され、その憎しみの感情を煽っているのが、国を守るべき
政府だということが悲しくてなりません。冷静に考えれば、
原子力事故を含めた今回の災害は、東電という一企業の問題でも、
責任でもなかったはず。むしろ、この事態を悪化させたのは、
政治ごっこを、大災害時の現実にまで持ち込んだ政府面々の
実知識と良識の欠如だったと信じて疑いません。


今になり、当時の状況は複雑で、そんな単純なものではなかったと言う
人々も出てきていますが、まったく逆で、あのような混乱時こそ、
物事はより単純になり、ゆえに、権力を持つ者の純粋な力量のみが、
事態を直に左右するのだと思います。物事が複雑になるのは、人々に
考える余裕が出来る平時であって、管首相及び政府の政治家ふうの面々が、
2か月近く過ぎ、事態が落ち着いてきた今、徐々に
強気に横柄になってきていることが、象徴的と感じます。




が、地震当日の「記者会見」で、どこか、目立つチャンスだと
言わんばかりの、嬉しさを押し殺したような表情で、軽い、意味のない
言葉を発し続けた管首相の、不適切な姿を忘れることが出来ません。
あの瞬間に、首相=最高司令官の的確な判断と救助とを待ち、
生死の境をさまよっていた万の人々がいたことを思うと、
今でもなぜか涙が流れてきます。


そして事態が、政治ごっこでは対応できないほどに深刻化すると、
右往左往し、おどおどと放心したようになっていた管首相の姿を、
忘れることが出来ません。また、災害後数週間のあの大切な時期に、
数々の問題への対策が、何も講じられていなかったことや、
二か月が経った今ですら、全てが滞ったまま、むしろ、
混乱と憎しみが増しているだけという単純な現実を、
曲げて見たくはありません。



大災害が起きた直後、日本人は凄い、と思わせた、あの、互いを
思いやり支え合う人々の心を、たった数カ月で、その美徳の対極にある
もう一つの日本的な性質――集団いじめへとすり替えてしまった
管首相と政府の罪は、決して軽いものではないと思います。



首相が「東電の責任」という言葉を強調し使った記者会見を
たまたま見ていましたが、メディアでの表立った東電叩きが始まった
のは、それ以降のこと。なぜ、あの時、むしろ


「現場では、今も厳しい状況の中で、作業に当たっている人々がいる。
自らも被災者である人も多くいる。ですから、今は、原子力災害という
敵に立ち向かうのに、皆さん一人一人の力を貸して頂きたい。そして、
この事態が収束したあかつきには、この事故の原因を究明し、
責任を問い、罰すべきは罰し、また、今後のエネルギー政策の在り方を、
国が責任をもって、必ず再検討してゆくことを約束します」


と言えなかったのでしょう。


こぞって、災害はお前の責任だと罵声を浴びせ掛けるのではなく、
皆で後押しをすることが、原発で今も作業を続ける人々の士気を高め
さらには事態の早期解決に繋がるだろうことは、ごく単純な
事実であるように思います。そして、憎しみの対象を与えることではなく、
原発事故の早期解決こそが、福島の被災者の方々の最も望むこと、
そして、最大のサポートとなるのではないのでしょうか。



そんな、福島原発の状況も落ち着かない中、先日の
浜岡原発停止要請のニュースを読むに至り、管首相の
我欲に満ちた「政治ごっこ」が、日本に、千、万の不要な困難を
生み出していることを、改めて感じずにはいられませんでした。


個人的に、自然エネルギーへの移行そのものには反対ではありませんが、
素人目にも、これは国内メディアが扱う以上に重い発言と分かります。
そうと決めたのならば、それなりの覚悟と準備とを、「日本」という国として
国内外に示してこそ、真に意味のある発言となるはずですが、
この耳には、先だっての「原子力非常事態宣言」と同様、
実を伴わない、言葉のみの発言としか聞こえませんでした。


何よりも、首相は企業に要請をしただけで、実際の決定、対策、そして
責任は、中部電力と市とにまる投げをしている点は、もっと強く
指摘されるべきと思います。けしてこの要請を今の時点で「英断」などと
呼んではならず、これを真の「英断」とするためには、首相は、
発言の全責任を一身に引き受け、政治の力で、この要請に伴い生じる
諸問題の解決の道筋を、迅速に、現実的にたてなければならないはずです。
言葉には実行が伴わねばならないはず。



が、この発言はやはり「ごっこ」の延長で、的確な行動が伴われる可能性は、
限りなく低いと感じます。そして、この発言ゆえに生じる様々な問題は、
今度は中部電力の責任となってゆくのでしょうか。悲しいことに、
この発言の目的は、単純に、内閣不信任案を提出されることや、
党内の反首相勢力への牽制なのだと、思わずにはいられません。



首相と政府とが続ける「政治ごっこ」は、ひたすら混乱と諍いを
生み続け、「政治家」の現実的な仕事はほぼなされないままですのに、
メディアを通じ、奇妙なイメージのみが独り歩きを始めて、
「なんだか良く分からないけれど、とりあえず頑張っている首相」
として徐々に定着していく様を見ると、悲しくなります。


このまま管内閣が続くことで、日本という国が疲弊し、世界から孤立し
その力や誇りを失うことになりはしないかと心配になります。
そして、被災地の為に、日本の為に、今の状況を打開しようとする
力強いうねりが、政治の世界に生まれてくる気配がないことが、
日本という国が抱える問題の深刻さを物語っているようで、
悲しくなります。


また、個人的なことでは、震災後不安に思い続けてきたことが、
次々と現実となっていく中で、どうしようもない無力感に苛まされます。
いくらここで、こうして、現政府を批判しても、
実際に、現実に何が出来るわけではないのですから。




……随分、長々と話が飛びましたが、実は、つい昨日、初めて、今まで、
見る機会が無かった、V6の「絆」のメッセージを見ました。


  「今、できることを一つずつ」


良い言葉ですね。そして、本当に良い言葉を選ぶ人々。
意味を伴う言葉への、野性的な嗅覚があるようにすら感じます。



連休の間、ちらちらと政治の状況をみるにつけ、ひたすら
無力感に苛まされていたのだけれども、ばちんと頬を叩かれたよう。


今、自分に出来ることを、ひとつずつこなしていくしかないのですね。
ですから、ひとつずつ、例え小さな力でも行動に移し、
例え小さな声でも、きちんとあげていこうと思うのです。



今回のタイトルの「シフト」というのは、以前、安倍元首相が
あるTV番組で、復興のキーワードとして挙げた言葉です。全てが、
次の段階へと変化=シフトしなければならない、と言う意味だそう。
本当にそう思います。「蘇正」という言葉を付け加えたのは、
本来、日本と言う国が持つ美徳や、強さを、いつか事態が前向きに
シフトしたときに、蘇らせて欲しいと思ったからです。
温故知新で行きたいですね。



  「今、できることを一つずつ」



この言葉をメッセージに選んだV6に、敬意。
本当に素敵な人々です。


一年前、姉がコンサートに行くことになって良かった、と
心から思います。




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