僕と僕らのあした

奇妙に忙しくしていて、またまた時間が空いてしまいました。
気付けば、夜が随分早くに明けるようになっていて、
(台本を書いていると、つい昼夜が逆転してしまいがち……)
そういえば、夏至も近いのですね。


皆さんはいかがお過ごしですか?



今、できることを一つずつ、の気持ちで、次回朗読会の演目、
「Julius Caesar ジュリアス・シーザー」の準備を進めています。
他の有名な芝居に比べると、知名度の低い作品かもしれませんが、
力強く、内容の詰まった、シェイクスピア最高傑作の一つ。
国と、政治と、指導者と、民衆と。言葉と、力と、人と。友情と信頼と。
とにかく色々なものが、巧みに入り混じる壮大な歴史物語です。



ジュリアス・シーザー(=ユリウス・カエサル)という題名ですが、
主役はシーザーではなく、その暗殺に関わる人々。
そして、物語のキーワードは、「真実を見極める力」。
徳のある人間にその力が備わっているとは限らず、
その力に恵まれた人物が、必ずしも人徳者とは限らない。
心ある正しいものが常に勝つわけではなく、かといって
狡猾な人間の思い通りに、事が全て進むわけではない。
そんな複雑な人の世を、さらりとあっさりと表現した作品です。



朗読芝居ができることは、大きなことでも、強いことでもありませんが、
今、Playersにできる小さな問いかけをしていきます。
東京・六本木にて。お近くの方は、足を運んでみて下さいね……。




と、今、目の前にあることを、黙々とこなしている日々ですが、近頃
ふと我に返った時に、何だか寂しくてたまらなくなることがあります。


何といいますか、もの寂しさと悲しさが入り混じったような、
どこかに空虚な穴があいているような感覚を覚えるのです。


漠然と、今、国を覆う空気(雰囲気?)のせいかしら、とも思い、
もしかして、似たような感覚に襲われている人が、
案外多いのではないかしら、とも感じます。


例えば、仕事の合間にも、TVを見たいという気にならず、
新聞も流し読みするだけ。見た・読んだ後に、なぜか無性に
虚しくなってしまうのですね。付き合いで人と会うのも少々苦痛。
ですから、結局、何も手に着かず、ぼんやりしてしまいます。
「本当のもの」に、餓えているような感じなのでしょうか。


「良いふう」や「感動ふう」のものではなくて、
現実でも、フィクションでも、ごくシンプルに心を動かされる、
本当のものに出会いたい、と思ってしまいます。



そんなことを感じているせいか、近頃、シェイクスピア
原本を読む回数が増え、さらに、ふと、役柄に当てはめて、
V6の面々を思い浮かべてしまうのですよね。
で、実際のところは勿論分らないけれど、きっと90%くらいの
確率で、見事に演じ切るのだろうな、と思い、
その「本物ぶり」を想像しただけで、うっかり感動してしまいます。


90%の確信の根拠は、「勘」としか言えないのですけれど(苦笑)。



シェイクスピアの英語原文は、読んでいるだけでも、
どこか心を動かされる、力のある言葉群なのですが、それが見事に
演じられた時には、より強い力をもって、観客の心を掴みます。


ただ、その「感覚」を他言語に訳すのは難しく、こと日本語は、
構造が英語と対極にあるかのような言語ですから、
なおさら困難なのではないかと思います。



そう言えば、この、シェイクスピアの言葉が持つ「力」というものも、
少し誤解されているように感じます。
よく「言葉が絶対」などと表現されるのですが、それは、単純に
言葉の背後にある「意味」の絶対性の事を言っているのではなくて、
言葉そのものの「響き=音」が、人の身体に対して持つ、絶対的な
影響力の事を言うのですね。時には、意味など二の次になるような、
理論的な理由のない力といいますか……。勿論、意味も
大切ではあるのですけれど、それだけではない何か。
英語という言語が持つ「力」にも繋がっていることだと思います。


例えますと、一流のスポーツ競技が、観客に対して持つ力、かしら。
スポーツのファインプレーを見ると、意味もなく感動しませんか?
もしくは、オペラ歌手のドミンゴなどの、圧倒的な声が持つ、
理由もなくただ感動を呼ぶ力、にも似ているかもしれません。


ですから、時には、役者が意味を忘れ、シンプルに率直に「言葉」の
響きを声に乗せるだけの方が、深く観客の心に響くこともあります。
……実は、そういう言葉の発し方は、とても難しいことなのですけれど。



話をシェイクスピアの訳に戻しますね。
ですので、実は、英原文の「意味」に囚われて、日本語的ではない、
長々とした台詞言葉に訳してしまっては、その「意味の無い感動」の感じは、
日本の観客には伝わらないのではないかしら、と思います。


日本は、和歌の国ですものね。日本語は、5,7,5,7,7の
たった31文字で、一つの世界観を表現できてしまう言語ですから、
ぎゅうぎゅうと言葉を詰め込まれては、息が詰ってしまいます。
そう言えば、舞台『金閣寺』も、英語台本からの翻訳のせいか、
日本語の響きが持つ美しさが、窒息させられていたように思います。



私見ですが、日本語で表現されたシェイクスピアで、原文に近い
迫力を持って迫ってくるのが、黒沢明作品です。
映画「蜘蛛の巣城=Macbeth」は圧巻で、あれを舞台化して、
日本語版マクベスの定番にすればいいのに、と思ってしまうほど。



……話があちこちに飛びましたが、話題を戻して、V6とシェイクスピア
90%の確信の理由ですが、V6の面々が歌うときの、
メロディに乗せた日本語をシンプルで率直に発するのを聞く感じが、
多分、シェイクスピアを英語で聞く時の感じに、似ているのだと思います。
だから、きっと妙な確信を持ってこの二つを繋げてしまうのですね……。
つまり、ごく独断的な「勘」ということです(苦笑)。



ということで(……どういうこと?)、今回のタイトル
「僕と僕らのあした」。少し前の、V6の曲です。
実は、ここ1,2か月の間、寂しくなった時に、
なぜか、この曲が、頭の中を流れるのですよね。


が、この曲は、通常の「気に入り」とは若干毛色が違います。
不思議に思って、歌詞を読んでみましたが、好みもあってか、
やはり個人的には、あまりピンときませんでした。
すっきりとシンプルに表現されている言葉なのですけれど……。


で、実際に曲を「聞いて」思ったのですが、これは、
歌詞の意味云々というよりも、メロディと、歌い手のそれぞれの声と、
ひとつひとつの言葉の「音」の発し方が
しんみりと、切なく、優しく、胸に響く気がします。
言葉自体に、有無を言わせぬ力強さがあるわけではないけれども、
V6の声が、この歌の言葉をていねいに音にした感じ、
この言葉の音に乗せて表現されたもの、が素敵なのですね。



「表現」という観点から見たとき、以前書いた
「世界に……」の対極にあると感じる歌です。


シェイクスピアの力強い言葉を、この人たちが表現したら……
と思ってしまう理由が、何となく伝わりますでしょうか……?



ですから、聞いた事の無い方は、ぜひ歌詞を「聞いて」みて下さいね。
勿論、好みはあると思いますが、理由も無く寂しい時に聞くと、
理由も無く支えられているような気になる曲です。



私たちの明日に、前向きな気持ちが繋がっていきますように。



Players