「言葉遊び」と物事の本質

忙しい日々が続き、再び、随分時間が空いてしまいました……。
久しぶりの休みで、久しぶりにのんびり(だらだら?)しています。


皆さんはいかがお過ごしですか?



実は、時間に追われ、暫くの間、新聞を読んだりニュースを見たりする
暇がなかったのですが、今日、まとめてその間の分の新聞を読みました。


で、目についてしまったのが、福島原発原子炉への海水注入中断に関する
一連の記事。首相が注入の中断を要請したかどうかが議論され、
その責任が問われていた、という先週の記事です。
結局、現場独自の判断により、中断は無かったことが発表されて、
以降、その問題は落ち着いてしまったようですね……。


が、一気にまとめて記事を読んだせいか、個人的には、
本末転倒の感を拭えずにいます。



……また政治関連のことを書いてしまいますが、どうしても
気になってしまうので、今回も少しだけお付き合い下さいね……。




ともかく、一連の記事を読んでいて感じたのは、全体的に議論が
「言葉」に翻弄されてしまっているよう、ということ。


普通、話の聞き手というのは、与えられた言葉を解釈して、
その言葉が伝える「物事」を理解しようとするのですよね。
が、実を伴わない=伝えるべきことがない言葉を次々に与えられると、
聞き手の頭は、どれが「事実」を現している「言葉」で、
どれが実を伴わない「虚言」なのか、解釈に迷い、
ちょっとしたパニックに陥ってしまうのではないかしら。


そうなった場合、話題となっている物事の「本質」は、どこかに
置き去りにされ、ざっくりと『なんだかもう訳が分からない』
という印象になってしまうのだと思います。


この海水中断の件に関しても、政府発表が二転三転した挙句、
中断は無かったと発表され、その後、何となく
事態は一件落着してしまったのですよね。
数々の虚言を真面目に受けとめようとして、人々の頭が
混乱を起こした結果という印象を受けます。




が、本来、この問題の論点は、単純に以下の二点と思います。



 ―津波後の最初の数日の間に、首相が、『対策本部長として
  本来すべき仕事』=『最高責任者としての適切な行動、判断、決断』
  をしていたか否か。


  ―もしそこが機能していなかったとするならば、その事が、事態を
   悪化させたか否か。



そして、具体例を出してその点を明確にしようとしたのが、
今回の海水注入中断のケース、なのではないでしょうか。


ですが、「言葉遊び」が繰り広げられる中で、いつの間にか、
論点が「誰が海水注入を中断させたのか」という事そのものに
変えられてしまったようです。だから、
「現場の判断により、中断はされなかった」という事が発表されると、
問題そのものが無くなったかのような印象が生まれたのだと思います。




けれども、ここで注目されるべきポイントは、
「トップの失態を、現場が食い止めていた、という事実が確認された」
と言う事と思います。これは、当時、国の危機管理対策の中枢が
機能していなかった=首相がその責務を全うしていなかったことを示す、
具体例の一つですよね。決して、うやむやにして良いことではありません。



そして、この、中枢の機能不全が、事態を悪化させたのか?
という問い答えは、政府の「言葉あそび」が生み出すイメージを
取り除いて見れば、議論や検証の必要すらないほど、
明確な事、とこの目には映ります。


3月11日から15日頃まで、具体的な対策が何も講じられなかったことが、
単純な事実として存在するのですもの。そして、理由はどうであれ、
事態の放置が、その後の状況の悪化に繋がらなかったはずが
ないのですもの。以前も何度か書きましたが、その後の数々の虚言をも含め、
これは、個人的には、政治犯罪と同義と感じます。




そして、これは、現首相の首相としての資質そのものが疑われる
深刻な失態と思います。何しろ、原子力事故を悪化させているのですもの。
それが、メディアで、見合うべき深刻さを持って問われていないことが、
不思議でなりません。



そんな中での、今日の、内閣支持率僅かに上昇、というニュース。
浜岡原発の停止要請が評価されているようですが、これは、
多くの人々が、福島原発事故の本質を、原発政策そのものの
問題と混同させられているからではないかと感じます。これも、
首相及び政府が、「言葉あそび」で、物事の論点をずらし、
何となく、脱原発を訴える現政府・首相という「イメージ」を
作り上げていることが、功を奏していることの証明なのかしら……。


地震発生から、3か月近くが経ちましたが、原発問題を筆頭に、
未だ多くの事が宙に浮いたまま、という事実だけでも、
現政権の実務能力を疑うのには、十分だと思います。ですから、
管内閣が、今も辛うじて支持されている、というよりも、きっと
政治に関心を持って、きちんと経緯を見守っている人々が少ない、
というのが実際のところなのでしょうか……。少々寂しい気がします。



個人的には、日中韓首脳会談及びG8サミットでの、
管首相の満面の笑みに不安を覚えました。あれは、
震災後初の国際会議に、満を持して挑む一国の首相の表情ではなく、
初めて遠足に出かけはしゃぐ少年の表情と、この目には映ります。


少年のような表情をする、という事を批判するつもりはありませんが、
TPOを弁えねばならないはず。あの、場にそぐわない態度を、
一人自覚出来ずにいるような様は、公的立場を鑑みず、
純粋に「還暦を越した一人の男」の姿として見ても、
もの悲しいと感じずにはいられません。




少々話題が飛びますが、先日公演をした「ジュリアス・シーザー」。
史実はどうであれ、この芝居では、シーザーは、民衆の好むgameや
ceremonyを多く行うことで民衆の熱狂的な支持を集める、
独裁者願望が見え隠れする男として描かれています。発する言葉に
一貫性が無く、また自己認識が、実際とはかけ離れて誇大化しています。
自分は、北極星のように不動で偉大であると信じ込み、そう公言して
憚らない独裁者然とした姿が、むしろ滑稽なキャラクター。


シェイクスピアの劇団では、ポロニウス(ハムレットで滑稽な宮廷人
として描かれる人物)と、同じ役者が演じていたようで、
「尊大な独裁者」と言うよりは、「自分がそういう人物と思いこんでいる
道化」として演じられていたと考えられます。



前回、簡単に内容に触れましたが、この物語は、シーザーが、
巧みに自らの英雄のイメージを操り、民衆の絶大な支持を得ている
という状況から始まります。


シーザーの、虚=イメージが生み出す権力に寄り添っているのが、
マーク・アントニー。人の行動の裏にある本質を見抜き、シーザーが、
実を伴わない権力を手にしている事が我慢ならないのがカイアス・カシアス。
シーザーとは異なり、実のある徳で人々の尊敬を集めているのが
マーカス・ブルータス。


シーザーの野心を見抜き、ローマの将来を危惧した
カシアスとブルータスは、シーザーを暗殺します。ブルータスは、
独裁者の排除という暗殺の大義を率直に訴え、一時は民衆の支持を
得ますが、直後にアントニーが、「言葉」を駆使し、また、民衆の
目の前に金をちらつかせ、巧みに暗殺の大義の本質をすり替えます。
「実」が、「言葉が生み出す虚」に取って変わられ、
物事の本質を見極めることが出来なかった民衆は、憎しみを煽られ、
狂ったようになって暗殺者たちをローマから追い出します。それが、
結局は、自らの首を絞めることになると気付きもせず。



結局、アントニーは、その後、ローマの私物化に成功し、協力者二人と
独裁体制を築きます。ローマの自由を守るため決起したはずの
カシアスとブルータスは敗れ、自ら命を絶ちます。
が、物語の最後、真の勝者は、アントニーではなく、
その協力者オクタヴィアスとして描かれているようです。
実際、アントニーは、続く物語で、他の誰よりも惨めな死を遂げます。
「言葉遊び」で作られた虚像は、最後には、剥げ落ちてしまう訳ですね。



オクタヴィアスは、登場の機会は少ないながら、
劇中でとても重要な役どころを担っているキャラクター。
役のモデルは、アウグストゥス、言わずと知れた、初代ローマ皇帝
千年を超すローマ繁栄の礎を築いた人物です。ブルータスのように
真の実があり、カシアスのように物事の真実を見極める力があり、
アントニーの、言葉を操り民衆を味方につける方法をも使いこなした
現実的な人物、とシェイクスピアの目には映っていたのでしょうか……。




……また、長々とまとまりが無くなってしまいましたね(苦笑)。
ごめんなさい。この辺りで自重します。(……もう遅い?)


明日から6月。政局に動きがあると報じられています。
どうか、少しでも早く、真の復興へ向けての第一歩が踏み出せる日が
訪れますように。そして、日本という国が、誇りを取り戻せますように。





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