‘Optimistic pessimist’ の思考回路

変わりやすい気候が続きますが、皆さんはいかがお過ごしですか?


気付けば、いつの間にか7月も終わりなのですね。
次に、あれ、と思った時には、2011年も終わりに近くなっている
のかしらと想像したら、何だか怖くなってしまいました。


そして、気付けば、前回更新から又、2週間が経っている……。
時が過ぎるのは早いですね。年を取ってきた証拠でしょうか(笑)。



今回は、時間に追われつつ、まとめるのをきっぱり諦めまして、潔く、
感覚的な書きなぐりにしようと思います(笑)。ので、先にお詫びを……。



ええとですね、何だか、ここ最近、この国のマスメディアについて、
考えることが多かったのです。というよりも、マスメディアに
対する、受け取り手の様子について、でしょうか……。


個人的に、マスメディアには、ずっと不信感を抱いていますが、
近頃ふと感じるのが、もしかして社会全体も、随分客観的に
なってきているのではないかしら、ということ。歪んだ価値観が、
ついに底抜けに寛容な日本人の、許容ラインを超えてしまったような…。
以前、何かが躍起になっている感じがする、というような
ことを書きましたが、今度は、躍起になっているものを受け取る側の話で、
何となく、多少は影響を受けつつも、引いている感じがするのですね。



きっぱりと私見ですが、日本のマスメディアに起こっていることを、
明確な言葉にすると、ある種の「言論統制」が
まかり通っている状態、なのだと思います。


例えば、先々週、時間のある時に、国会中継を見ていましたが、
その後の報道は、中継で見た内容を反映してはいないのですね。
取り上げる話題を限定し、作為的に内容を編集して、
要約というよりも、編集者(報道側)が、見る側に与えたいイメージを
作り上げて報道しているという印象。で、その「作為的に編集する」
方向が大体どこも同じですので、ある種の言論統制、もしくは、
暗黙の非中立不公平が、まかり通っている状態、というわけです。


受け取る側も、それに気付かないか、もしくは、気付いても、
「まあ、今の報道なんてそんなもの」と、さほど気にも留めない位、
そういう歪みが、当たり前になっているという現状。
多かれ少なかれ、同じように感じている方は多いはず、と思います。



で、その「作為」の裏にある性質を短く表現しますと、
媚、と‘臭いものには蓋’の思考ではないかと思います。
物事の本質・核心には触れず曖昧にしたまま、
実の無い媚で表層を誤魔化す、という感じでしょうか。


これを、何となくマスメディア全体が、びくびくと、生真面目に、
しかも横柄にやっているように感じるのですね。びくびく、というのは、
色々、物事の本質が曖昧なままですから、漠然とした不安からそうなって、
生真面目に、というのは、事なかれ主義の体現、と思います。横柄さは、
それでも、実の無い世界の中で、万能になったように錯覚することから
生まれる態度、なのでしょうか。


それに影響を受けていた社会全体が、何となく不安定に浮ついていた
理由がわかる気がします。人々も、全体が曖昧な中で生み出される
不安を何となく肌で感じ、それに反応していたのではないかしら。



が、こういう「曖昧さが生み出す不安」は、その本質が
はっきりするまでは「脅威」なのですが、構造の本質が見えた瞬間、
「滑稽」に変わるのだと思います。悲劇が喜劇に変わる瞬間、という
表現をお芝居で使うことがありますが、そういう瞬間があるのですよね。


で、日本の社会が、ごくごく静かにではありますが、その瞬間を
迎えつつあるのではないかしら、と、ここ数日、感じられてなりません。
希望的観測なのかもしれませんけれど……。



……感覚的な話になり過ぎですね。ええと、具体例をいくつか。
例えば、なぜか日本では長い間タブーとなっている、「戦後問題」。


端的に、中国・韓国・朝鮮に係わりのある「問題」は、
「媚」を伴わない限り、報道されませんでしょう。例えば、
先々週の国会中継でも、現首相が、北朝鮮拉致問題容疑者と
深く関係する団体に、多額の献金をしていたと指摘されていましたが
後の報道では、あまり大きく取り上げられてはいませんよね。


が、これは、冷静に考えますと、深刻な問題。仮に、もし米国大統領が、
米国内にある、アルカイダに係わりのある組織に多額の献金をしていた、
などという事実があったとしたら、大問題になるとは思いませんか?
それと本質的な構造は同じで、本来、見ぬふりをするような問題では
ないわけですが、この国のマスメディアは、見ぬふりをするのですね。
重要であればある程、軽視・無視する傾向があるのではないかしら。


これは、そういう点には触ってはいけない、というタブー意識から
生み出される「言論統制」の一種なのではないかと思うのです。
(実際に何らかの緘口令が出ているのなら、大問題ですけれど…。)



逆に、問題点の明確でないものを、執拗に騒ぎ立てることもありますね。
例えば、大相撲の「八百長」などは、異様なほど叩かれましたが、「相撲」
というものの本質と歴史を検討した上で、問題点を指摘する、という報道は
ほぼ皆無で、「腐敗した角界」を合言葉に、人々の嫌悪感を煽る
報道のみに終始していたように思います。ですから、報道を見ている
だけの人々は、何がどう問題なのか、明確に理解してはいないはず。
どころか、きちんと蓋を開いて見てみると「角界を揺るがす大問題」
など、案外、存在すらしていないのかもしれないですし、ね。


詳細は避けますが、近頃話題の、やらせメール問題も、「やらせ」という
言葉の持つイメージと、誰が何を言った、というゴシップ記事だけが先行し、
この事実のどこが、なぜ、どのように問題なのかは、はっきりとして
いないのですよね。「この事件の問題点」を端的に指摘した報道
というものを、知る限りでは見かけたことがありませんし、むしろ、
この出来事を、とにかく重大な問題として煽ることそのものが
目的なのではないかしら、とさえ感じます。


こういった一連の報道が、実の無い媚、と感じる部分。



他にも、例えば、価値観の押しつけを感じることもあります。
演劇を始めとする芸術分野で顕著と思いますが、あまり出来の良くない
ものでも、良いもの、素晴らしいものとして報道するのですね。結果、
多くの偽物が、分不相応な社会的評価を得て、まかり通っている。
本当に良いものと、拙いものとが、同列に扱われ、どころか、
その価値が逆転してしまっていることも稀ではありませんよね。


故に、国内で「一流」と呼ばれるものが、実は張りぼてであることが、
多く、こうなると、本物が出てくると具合が悪いですから、
ますます本物を避け、偽物に媚びるという悪循環に陥っている、と。
もしかして、これが、この裏ブログでもよく使う、
「本物は嫌われる」風潮の、源なのかもしれませんね。
世界各地で本当に「一流」と認められるものの多くが、国内では
ひっそりとした存在であることが、度々起こる所以とも思います。



あちこち話が飛びましたが、日本の(だけではないのかもしれませんが)
マスメディアというものは、長い間、こういう存在だったのだと思います。
で、人々はそれを、もしかして、心のどこかでは疑問に思いつつも、
寛容に受け入れ、その風潮に乗って、従ってきたわけですね。


が、今、否が応でも現実が現実的に重みを増していますから、
虚の存在がはっきりと見えはじめて、人々が、「曖昧さが生み出す脅威」
から抜け出しつつあるように思うのですね。感情を煽る報道も、
そのうち人々に響かなくなるかもしれませんし、逆に、感情の
押し付けが、日本人の原始的な理性に障ってきている気もします。


何と言いますか、不条理が明確になるまでは、ひたすら現状に寛容な
日本人ですが、もしかして、白黒がはっきりとすると、
一気にボケを振るい落として、覚醒する民族でもあるのではないかしら。
しかも、爆発的にではなく、地味に。



……まったく具体例になっていませんね。ごめんなさい。
が、何となく、漠然と、そんなことを感じていた7月だったのです。




ところで、タイトルの「Optimistic pessimist 楽観主義的悲観論者」。
実は、これが、日本人の本質ではないかしら、と考えているのですよね。


ちなみに英国人は、「Pessimistic optimist 悲観主義的楽観論者」。
英語そのものが楽観的で明るい響きの言語ですが、基本、人生に対して
楽観的で、「人生、甘いもの。何とかなるさ、ちょろい、ちょろい」と
思っているように感じます。で、その楽観的思考回路に危惧を抱き、
その事に対して随分悲観的になっている、と。「こんなにお気楽で
いいはずがない。ちょっと悩もう」というわけです。ですから、
ぐちぐちと悲観的なことを言っても、暗くならないのですね。多分(笑)。



日本人はその逆で、基本、人生は辛く厳しいもので、人の世は儚く
移ろいやすいものだと思っている。故に、そのことに対して、ごく
楽観的なのではないでしょうか。「まあ、人生色々大変で苦労も多いが、
それはそれで仕方がないから、とりあえず楽しくやろう」という感じ。
以前も書いた「をかし」の心とも繋がりますね。徹底した現世主義で、
この、地に足のついた明るさを、失ってはいけないと感じます。


本来、日本人というのは、無邪気で同情的ではあるけれと、
根が、どろどろと感情に溺れる人種ではないと思うのですよね。


ですから、ずっとこの国のマスメディアが煽ってきた、底の浅い
感情ドラマ崇拝や、とにかく感動をありがとうドキュメンタリー
の風潮には、そろそろ嫌気がさしてくるのではないかしら。



勿論、個人的には、とっくに嫌気がさしています(笑)。
例えば、なでしこの世界一も、長年のサッカーファンとして、
嬉しかったけれど、その後の「感動をありがとう」報道には苦笑い。


それよりも、なでしこの勝利では、恵まれない環境にある人々が
世界一になったと言う部分に、日本の底力を感じるのですね。
というよりも、そこが日本人の誇るべき能力なのだと思います。
国をあげて支援しているものがトップに立つのは、ある意味当たり前。


が、日本人には、援助が無いなら自分たちで何とかする、という精神性が
あって、それが日本人の強みと思うのです。被災者の方々もそう。
国が何もしてくれないなら、まずは自分たちで出来ることから
何とかするという考えが、自然に生まれてきていますよね。


ごく当たり前のことのように感じますが、これは誇るべきこと。
決して「世界的な常識」ではありません。


働くことと努力することを厭わない。馬鹿が付くほどお人よしで素朴。
悲観論者が、楽観的に物事をとらえると、こういう性質が生まれるの
かもしれませんね。以前書いた、Noel Cowardではありませんが、
長い年月をかけて、この土地が日本人の中に培ってきた、
そういう根の部分の国民性が、とても好きです。


その地道さに、自然を敬い、節度を守るという昔ながらの思考回路が
加わったところに、エネルギー政策を含めた、日本と言う国の 
進むべき道もあるような気がするのですよね。



と、なんだか、いつの間にか、大仰な話になっていますが(笑)、
色々ひっくるめて、結果として、安倍元総理や麻生元総理の、
更なる活躍を期待します。マスメディアの奇妙な「言論統制」の中で、
「なんだか知らないけれど、触れてはいけない」類に入れられていた、
と感じる典型的な人々。


そういえば、今年の始め頃には、この裏ブログでも、少々書くことを
ためらったことがあります。蔓延していたタブー意識は、よほど
強かったのでしょうね。が、今はそう感じることすら馬鹿馬鹿しいと、
心から思います。素直な「愛国心 patriotism」と、
偏った国粋主義とは、同列に並べられるべきものではないと信じつつ。



と、ここで、なぜか頭に浮かんできたのが、次の二つのスピーチ。



   O time, thou must untangle this, not I
   It is too hard a knot for me t’untie.
   (時よ、これは、お前が解決しておくれ、
   この身が解くには、どうやらややこし過ぎるもの)



   There is a tide in the affair of men
   Which, taken at the flood, leads on to fortune
   Omitted, all the voyage of their life
   Is bound in shallow and in miseries.
   On such a full sea are we now afloat,
   And we must take the current when it serves
   Or lose our ventures.
   (人の所業には満ち引きがある
   流れに乗れば、路は揚々と開けるが
   乗り損ねると、その旅路は
   浅瀬に乗り上げ、惨めなものとなる
   そんな大海原を、我らは漂っているのだ
   そして、時が満ちたその瞬間を逃してはならん
   でなければ、運命に負けるのみ)



人は、この二つの思考の間でバランスを取りながら
人生の舵をとっているのかもしれませんね……。



……気づけば、なんだか、本当にまとまりのない内容に
なってしまいましたが、どうも色々考える癖があるのです。
それよりも、早く仕事をしろ、と姉に怒られましたが、
いいのです。考える時間のある人間は、
考えることも、仕事の一つなのです。多分(笑)。


ずっと頭の中にあったことを、吐き出したら、すっきりして
本来の仕事に打ち込めそうな気になってまいりました。
が、ふと気付きましたが、延々とまとまりのない内容を、
読まされてしまうほうは、とても迷惑ですね……。
どっと冷や汗が……。


いい加減そろそろ自重し、書き逃げをします。ごめんなさい!




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