解釈と想像力

久しぶりの大雪で、先週の関東地方は大変でしたね……。
個人的には、雪も寒さも非日常の面倒事も好きですので(笑)、
意味もなくうきうきしていましたが、皆さんはいかがお過ごしですか?


さて、今回は、昨年末に書いたものが保存されたままになっているのを
見つけましたので、ささっと手直しし、アップしてしまうおうと思います。



〜・〜・〜・〜


近頃、続けて芝居を見に行く機会がありました。で、ふと、
こと西洋が起源の舞台芸術を、日本で見る時に感じる物足りなさを、
なんとか言葉にしておきたいと思い付きました。ので、今回は
頭に浮かぶ事を、とにかくさらさらと書いていきたいと思います。



……と、ここで話題はフィギュアスケート浅田真央選手に。
浅田選手の演技は大好きなのですが、時折ふと、もどかしさを感じる
ことがあり、それが、どうも上記の物足りなさと似ているのですね。


という訳で、今回は、浅田選手の今期の演技について思う所を
書いてみようと思います。それで、言いたいことが上手く
言葉にならないとも限りません(苦笑)。


ので、ご興味のない方は、あらかじめご了承くださいね。
……ちなみに、フィギュアスケートのスポーツ的要素は
潔く(?)無視し、ごく傍若無人に演技として
話を進めてまいりますので、それもご了承くださいね(笑)。



では早速。
ええとですね、英国の名優と呼ばれる人々は、深い「解釈力」と
「想像力」とを兼ね備える、などと言われますが、個人的にも、
この二つは一対で、最も「演者」に必要なものと考えています。



で、ですね、近頃の浅田選手の演技を見ていて、ふと、動きや音楽を
どれくらい自らの想像力を使って解釈しているかしら、と思う事があります。
動きを、正確に丁寧に真面目に美しくこなすだけでなく、動きの持つ
「意味」を、どれくらい深く理解してから演じているかしら、と。


とくに近頃は、より解釈が必要とされるようなプログラムを演じている
ように見え、一ファンとして、余計にその辺りが気になってしまいます。



例えば、ショートプログラムに使われているのは「I Got Rhythm」という
音楽ですが、この音楽そのものが持つ質感をどれだけ解釈しているかしら
と、見るたびに思います。


音楽と振付が何を表現していて、一つ一つの動きにどんな意味が込められて
いるのかが、見ていて分かりにくく、ただ、与えられた動きを楽しそうに
やってみせているだけのように見えてしまうのですね。


もし、単純に明るく可愛いだけのものを表現したかったのなら、
それに見合った、軽くあまり意味のない音楽を選ぶべきで、
どうもこの音楽も、この音楽に合わせて作られたと思しき振付も
そんなに薄っぺらいものではない気がしてなりません。


ので、今のままですと、解釈が説得力に欠ける、といいますか、
音楽や振付そのものが持つ飄々とした質感を無視して、ひたすら
大前提の「楽しく可愛く明るく」を表現しているだけ、のように見え、
故に、演技が表面的で上滑りしている、という印象を受けてしまいます。
その、微妙なちぐはぐさ・腑に落ち無さが、見ていてもどかしいのですね。
折角の才能が空回りしてしまっては、本当にもったいないなあ、と。



フリーの「白鳥の湖」も、美しいけれども、演技がもう一つ
広がりに欠けるように見え、これも個人的には、想像と解釈による
「深み」の有無の問題ではないかしら、と思っています。



例えば、白鳥と黒鳥が表現するものの違いを、自分で細部まで想像して
明確にしているかしら。ただ「異なる二つのものを表現する、
白鳥は優雅に黒鳥は力強く」だけで解釈を終わらせてはいないかしら。


オデットは、自らの落ち度は何もないまま、呪いをかけられ
白鳥に姿を変えられてしまった姫なのですよね。そのオデットの住む湖は、
娘を奪われた母の涙で出来ているとも言われるそうです。そんな場所で
ひたすら救いを待ち踊り続ける、という存在がオデット。
一方のオディールは、魔王の娘。圧倒的な存在感と魅力で、
オデットの恋人のみならず、その場にいる全てを虜にしてしまうという、
色々ミステリアスな存在ですよね。オデットの双子の姉妹やオデット自身の
黒い分身などと解釈されることもあるとか。


そういう物語や登場人物の詳細をどれくらい集め、
どれだけ丁寧に自分なりに解釈しているかしら。


そして、それを踏まえた上で、振付の動き一つ一つが何を
表現しているのかを、きちんと解釈してあるかしら。


さらには、踊りの場面の背後に広がる情景--どこが湖で
どこが森とか、舞踏会会場の内装など--を、きちんと
細部まで想像してあるかしら。



下らないようだけれど、背景や人物の詳細を想像しておいたり、
それぞれの動きが表現するものをちゃんと解釈しておくと、
たとえ本番で技術的なことしか考える余裕がなかったとしても、
観客への伝わり方は劇的に変わってくるはずなのですよね。
時には、観客が背景の風景を見ることもある程です。


何しろ、物語への理解が深まると、同じ振付を、何も知らずに
踊っていた時とは、表現も演じ方もまったく変わってきますもの。
動きの背後にちゃんと思考があるかないかで、手の伸ばし方
一つをとっても、随分動きが異なってくるのですものね……。



それから、緩急の使い分けや、ペースの変化、盛り上がりの頂点の設定
など、演技の技術的な部分の流れを、内容や音楽と照らし合わせて
意識して明確にしてあるかしら。
始めから終りまで同じペースで疾走しては、アスリートとしては
見事だけれど、折角の物語表現は単調になってしまいますもの。
これも、「全体の流れ」の解釈の問題と思います。


このプログラムでは、特にオデットからオディールに変わる瞬間や、
オディールの魔性の踊りの見え方が、そういうメリハリの組み立てを
きちんと意識しているかいないかで、随分異なってくるのではないかしらね。



こういった全ての解釈を、練習の段階で終わらせておくと、本番は随分楽で、
演じることそのものが、随分楽しくなるのではないかしら、という気がします。
そして、白鳥と黒鳥の違いも、そこから自然と生まれてくるもの、と思います。



……と、長々と綴ってしまいましたが、ともかく想像力と解釈力は、
演じ手にとって、最も大切な能力と信じて疑いません。


この白鳥の湖の二人の姫も、I Got Rhythm の曲も、演じ手に解釈の余地を
残している懐の深い題材ですし、観客にとっては、解釈の違いを見ることが、
同じ演目を異なる演者が演じるのを見る醍醐味なのだと思います。



で、もし浅田選手にまだ足りないものがあるとすると、
この想像力と解釈力なのではないかしらと個人的には思っています。


そして、まだ年若い選手たちに、そういう「解釈」の重要性を
説く指導者はいないのかしら、と不思議になりますし、
近頃見た芝居が物足りなく感じたのも、この「解釈」に、奥行きや
面白味が無かったからだと考えています。



……で、ですね、ふと舞台・芝居は良くも悪くも社会の鏡などと
言われる事を思い出すのですね。現在の日本の社会そのものに
欠けているものが、この想像力と解釈の「深み」なのではないかしら。


何事においても、表層の見た目を重視して、裏に伴う意志や意味が
軽んじられ、どうも中身が薄っぺらくなる傾向があるように感じます。
それでは、中々社会は成熟しないのではないかしら……。



皆さんはどう思われますか?



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