秋の夜長に

先月は、竜巻が発生したり、大雨が降ったりと、奇妙な気候から
始まりましたが、10月は比較的穏やかな日が続きますね。
……などと思っていたら、関東は夏に逆戻りしてしまいました(笑)。
しかも、気づけば近所の桜がほぼ満開に。何だかなあ、と苦笑いする
日々ですが、皆さんはお変わりありませんか?



それにしても、近頃は、これまで常識と考えていた事に当てはまらない
ことが多く起こりますよね。ふと、これまでの「知識」や「常識の概念」を
一度取り払って、様々な物事を、まったく新しい目で見直した方が
よい時期にきているのかしら、と思うことがあります。
自然現象に関しても、人間社会の仕組みに関しても、ですね。



……考えてみると、人間の知識というのは、「何か」に対する
「人間の理解」であって、まったくの空想と、実はそれほど違いがある
訳ではないのですよね。もちろん、知識は現実の現象を反映していますが、
所詮は人間の頭が生み出したもの。実体を持たない思考ですから、
現象そのものと、うっかり混同してはいけない、としみじみ思います。


が、近頃はその辺りの自覚が薄れ、知識を絶対と勘違いするきらいが
あるのではないかしら。例えば、ニュースでよく耳にする
「想定外・想定可能」といった言い回しにも、「知識」に対する
過信のニュアンスが含まれているように、個人的には感じます。



確かに、人間が現在持つ知識の量は膨大で、近頃は様々なものごとが
より深く的確に解明されるようになった訳ですが(多分)、実際は、
その高度な知識のせいで、理解に柔軟性や幅がなくなり、「想定外」の
出来事が増えたと、感じるようになっているだけではないかしら。


「何か」を知っていると思い込みすぎて、どんな特質を持とうと、
とにかくただそこに発生・存在しているだけの何かを、まずは
そのまま「そう」と受け入れることができなくなっているような。
故に、「想定外」の何かが起こる度、必要以上に慌てふためき、
右往左往しているような。



また「未来予測」も過信され、予測は完璧でないと許されないような
風潮もありますが、本来、予測は、もし当たったら御の字、
外れても仕方がない、くらいの認識でいるべきではないかしら。
大体、人間が未来の出来事を正確に予測するなど、出来るはずが
ないのです。諦めではなく、生物の限界の認識、という意味でね。


が、その辺りの謙虚な自覚が忘れられ、人間は世(自然?)の仕組みを
把握していると、たいへん巨大な勘違いをしがち、なのではないかしら。



もちろん、知識や研究・探求を否定しているのではなく、ただ
いくら頑張ってもですね、人間が考える事ができる時間は短くて
(先人の知識を積み重ねたとしても、せいぜい200年分程度の
蓄積を現在に反映させることができればいいところなのではないかしら)、
その間に私たちが理解できる「自然の摂理や法則」も「社会の仕組み」も、
何か本当に大きなものの、ちっぽけな一部分に過ぎないのだろうな、と
思っているのですね。


ですから、「理解」を深めたり「予測」の精度をあげたりする努力は
大切なことですが、やはり「人間は所詮、一生物に過ぎず、
その理解の遙かに及ばない大きな仕組みの中の一部として生きている」
という辺りの事実は、決して忘れてはいけないと思うのです。



もしかして昔の人々(どれくらいの昔?とは聞かないで下さい)は、
その限界を本能で知っていて、人間の認識能力の範疇を越えたものを、
神と名付け敬うことで、想像と理解という特殊な力を持つ自らの存在を
諫めていたのかもしれませんね……。



……って、こんな文章で、書こうとしていることは伝わって
いるのかしら(苦笑)。とりあえず「あ、今回も訳の分からないことを
書いていやがるな」と、あっさりばっさり読み流して下さい(笑)。



さて、話題変わりまして、私事ですが、実は、夏にロンドンへ
里帰り(?)をしていました。以前の暮らしに期間限定で戻る、
という感じの滞在でしたが、やはり7年の間に、色々なところに
様々な変化が起こっていて、驚かされました。


ロンドンという都市も随分変わったなと感じましたが、それ以上に、
過去の6、7年というのは、世界全体で人間の生活スタイルや常識に
かなりの変化があった期間なのね、と妙に実感してしまいました。


意外なのですが、たった6、7年前は、「スマフォ」も「ソーシャル
ネットワーク」も、まだあまり浸透(発達?)していなかったのですよね。
携帯電話とPCが普及して、一般的にインターネットを使うようになって、
YoutubeSkypeあたりが、若者たちの間に広まった、くらいの時期。
丁度帰国の1、2年前に、液晶の薄型TVが、高級デパートなどに並び始めて、
へえ、画期的、と思ったのを覚えています。


と、今は当たり前のように身近にあり、かつ7年前にはなかった
(珍しかった)ものは、実は驚くほど多いのですよね。



徐々に変わってきているので、変化に気づかずにいましたが、
英国での生活の感覚は以前のままだったので、今回、ちょっと
未来にタイムスリップした昔の人、のような体験をした気がします。
様々なことが、確かに便利にはなったのですが、「便利」=
「人間に好影響」かどうかは個人的には、かなり疑わしいところ。
現在の繁栄の負の部分は、これからどんどん目に見えるように
なってくるのではないかしらね……。



……と、少々考えさせられて帰ってきたのですが、実は、さらに
興味深かったことは、帰国して、日本の空気がとても落ち着いている、
と強く感じたことでした。


確かに、日本も例にもれず、近未来化(?)して、せわしなく便利に
なってはいるのですけれど、それとは異なる次元で、何と言いますか
「気配」が鎮まっていて、土地に漂う空気に浮つきが少ないように
感じたのですね。で、やはり先の震災が日本に与えた影響は
大きかったと、実感しました。


しかも、その「影響を及ぼした出来事」というものが、
人為的な革命ではなく、「自然災害」というところが、
日本人の精神構造に深く影響していることを、再確認した気がします。
日本の国民性は、やはりこの土地と自然条件から生まれているのだな、と。



で、以前もちらと書いたのですが、この日本の「落ち着き」は、
今、世界で最も価値のある特質だと、改めて思っています。
そして、今、このまっとうな空気を保っていることの重要性を、
日本人自身がもっともっと自覚しなければいけない、と強く思います。


こと、政権も安定し、東京オリンピックも決まり、日本にとって、
物事が上向きになってきていると感じられる時期だからこそ、
今、この国の「価値の概念」を、改めて、落ち着いて、いらないものを
そぎ落として、新しい目で見定めるべきなのではないかと思っています。


自らの立ち位置の自覚がないままですと、気づかないうちに
また人々の足が地から離れてしまわないとも限りません。
多くの犠牲の上に成り立っている、土地そのものがもたらしてくれた
鎮まりですから、折角の、色々な意味での再生のチャンスを
無駄にしてしまっては、本当は、申し訳ないのですよね。



で、です。今回の帰国後、本当に強く思うのですけれど、
この国の「価値観」をしっかりと再確認・再検討する為にも、
今、日本は、自国のマスメディアの異常性としっかり向き合い、
それを正していくことが急務なのではないかしら。


個人的にも、これまでは、「いずれまともになるでしょう」程度の
願望を持っていただけでしたが、今は心から、何をおいても日本が
向き合うべき課題は、それと思っています。政治家も、国民も、ね。


何といっても、メディアは、中途半端に影響力があるのですもの。
その影響力で、歪んだ価値観を撒き散らし続けられては、困ります。
本当に、日本のマスメディアが、客観性と公平性、純粋な美的感覚を
取り戻すことが、今、どれだけ大切なことかと、しみじみ思います。



……そういえば、メディアと言えば、もう一つとても気になることが、
海外向けの情報発信です。日本は自国のニュースを、もっと客観的に、
海外に向けて、的確な英語で発信すべきではないかしら。


日本人が想像する以上に海外の人々の日本という国への理解度は低く、
故に、現在の日本の報道の偏りを知る人々の数も少ないのですね。
さらに、日本のメディアの英語報道は、一般の日本人が考える以上に、
客観性・中立性を欠いていると(日本に悪影響のある方向にね)、
個人的には思っています。


今、最もしてはいけないことが、英語での情報発信を軽んじることで、
日本の主要メディアの英語報道の質がどれだけ低いかは、もっともっと
日本人が神経質になっていい問題と感じます。奇妙な価値観に支配された
奇妙な日本の報道が生み出す、海外での奇妙な誤解を、決して軽視しては
いけないのではないかしらね


個人的には、気骨のある日本の海外滞在経験者などが、歴史や古典に
精通した日本の知識人や、こと英語を母国語とする、日本をよく知る
外国人たちと共同で、自然発生的に「優良ウェブ中道英語新聞」などを
立ち上げてくれればいいのに、と願っていますが、やはり当面は政府が
的確な自国の見解を、積極的かつ慎重に、きちんとした英語で
発信し続けることをして欲しいな、と思っています。



……少々話題が逸れました。戻しまして、メディアの歪み、でしたっけ。
ええと、やはり、地味に草の根的に、人々がメディアの歪みを
歪みとして認識していくことが、最短の矯正方法になるのかしら。


個人的には、人々それぞれが、与えられたものを無条件で
受け取るのではなく、まずは、自らの価値観と照らし合わせ
「選ぶ」ようになるだけで、メディアは劇的に変わる気がします。



で、基準となる「価値観」は、案外、人々が一度日本の伝統的な暦を
一年間、周囲の気候変化と比べながらじっくり追ってみることで、
磨かれるのではないかしら、と思っています。今は、インターネットで
調べることもできますし、そういう類の暦や本も売っていますから、
それほど手間がかかることではありませんし、何とか、上手い具合に
多くの人々がそんな方向に動いていってくれないものかしらね……、
って、結局、願望どまりの意見になっていますね(笑)。


(しかも、価値観の再生と、メディアの矯正に関しては、
卵が先か鶏が先かの、堂々巡り論になってもいるような(苦笑)。)



……と、秋の夜長に、取りあえずここまで、思いつくまま、長々と
つらつらと書き綴ってしまいましたが、ここまで読んで下さった
奇特な方はいるのかしらね(笑)。


どうも、色々な事を考えさせられた夏だったので、中々思ったことを
上手く文章にまとめられずにいたのですが、今回、まとめることを潔く諦め、
一気に書きなぐってしまいました。そしてですね、なんと更に潔く、
このまま(書いた本人も訳の分からないまま)アップしてしまおうと思います。


次回も、これに似た話題をもう少し続けようと思っていますが、
次回は、きちんとまとまった内容になりますように、と文章の神さまに
お願いしつつ(笑)、今回は本当にこのまま、書き逃げをいたします。


……ごめんなさい!



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