幸せになる覚悟

関東もやっと梅雨があけたと聞き、
嬉しいやら(うす暗いのがたいへん嫌いなので)
恐ろしいやら(むし暑いのがたいへん苦手なので)
のこの頃ですが、皆さんはいかがお過ごしですか?



私的な事ですが、時間に追われ、あまりに
身体と神経を酷使していたせいか、先日、
うっかり階段から転げ落ちてしまいました(笑)。


あくせくと出かけようとあくせくと家を出たのですが、
寝不足で、体(頭?)の芯が覚醒していなかったようで
普段なら考えられないような転び方をなんと
階段の上でいたしまして、そのままコロリと転落です。


日頃の行いがよかったため(笑)、足の打撲と
腕の擦り傷だけですみましたが、ああ、驚いた。



で、思ったのですが、こういう出来事というのは、案外
何かが体の限界を強制的に知らせるサインかもしれないですね。


その日は思いきって、夕方以降の予定を全キャンセルし、
家でおとなしくした後、10時には寝てしまったのですが、
翌日、なぜか生まれ変わったような爽快感が……。
打撲の後は痛いですけどね(苦笑)。



でも、やはり何事にもメリハリが必要。気ばかり焦ると、
週7日、ずっと仕事のことばかりを考えていて、
どうも休みをないがしろにするクセがあるのですが
そうすると、仕事の効率はむしろ悪くなっているのですよね……。
今回、それを痛感させられました。


皆さんも、うっかりそんなことをしていませんか?
って、そんなマヌケはあまりいないかしら(苦笑)。


と言う訳で、きちんと仕事の事を忘れる時間を取るようにし、
こうして裏ブログなどを書いたりしています。



……と書いた時から、結局一ヶ月が経ってしまいました(苦笑)。
打撲のあともずいぶん治り、現在、地獄のような忙しさの日々を
抜けています。今は、実は体調管理と精神状態管理(笑)に
気を使う他は、案外時間があるのですね。
ので、この書きかけの裏ブログに戻ってまいりました(笑)。


で、今回も、常日頃ごく無駄につらつらと考えている事を、
ごく無意味に、かつ熱心に書き綴ろうと思っています。



さて、ええとですね、職業柄か、集団(人々)を観察するのが
好きなのですが、近頃、とても対照的な二組の集団について、
興味深く眺める機会がありました。ので、そのことについて
ごく無駄に、つらつらと考察してみようと、
ごく無意味に、かつ力強く決意いたしました(笑)。


が、曖昧に微妙にお茶を濁して書くつもりですので、
何言ってんだか分かんないし、と腹が立ちそうな
予感がする方は、ぜひご注意を。



では早速。ええと、人間関係というのは複雑ですが、集団内で
起こりうる現象というものは、案外、限られているのですよね。


で、です。ある二つの集団に、どうやら同じ現象が起こった、
と考えられるのですね。が、それに対する反応が、それぞれ
異なったわけです。一方は集団の終焉を、他方は継続を選んだ、と。


どちらの決断にも強い意志が必要と思いますが、この反応の差
といいますか、それぞれが選ぶ道の違いは、いったいどこから
くるのかしらと不思議になります。その集団を構成する
人々の性質、運、環境、色々あるとは思うのですけれど……。



が、その辺りの解明(?)は置いておいて、
上記の二つの集団について話を進めますね。


一見、潔く格好いいのは、終焉を選ぶ方なのですが、近頃、
年を取ったせいか「継続」の方に、より強い魅力を感じる
ようになりました。


集団がその集団であることに苦痛を感じるようになった時、
ぱっと終わらせてしまうことは、一瞬の強い痛みを伴うけれど
後はその痛みを過去にしてしまえるので、案外簡単。


が、その苦痛を内包したまま継続を選ぶということは、
一見何の決断もしていないようだけれど、実はものすごい
覚悟が必要と思います。個人的には、これがすごい。



ので、まずは継続を選んだ集団について書きますね。


具体的に何が起こったのかは、本人たちのみぞ知る、ですが、
集団であることに苦痛を感じるようになった後も、ともかく
この集団は継続を選んだわけです。


その後、行動の端々には、なかなか癒えない苦痛の陰が
見え隠れするのですが(何しろ継続しているわけですから)、
それでもこの集団は、表面上は、ごく飄々と淡々と
時を重ねてきた、ように傍観者の目には映るのですね。
個人的には、これもすごい。



さらに、時間はかかるけれど、継続する苦痛にも、人は
そのうち慣れるもの。で、その苦痛が日常になった頃、
この集団に思いもかけない幸せが訪れた、ようなのですね。
(思いもかけないとはいえ、これは、継続する苦痛を
乗り越えたからこそ訪れるものとは思うのですが。)



傍観者的にも「ああ、よかった」と、どこかほっとさせられる
のですが、幸せになる、ということは、決していいことばかり
ではありません。


これは単純に集団が作り出す雰囲気の「変化」ですから、
この変化が、またその集団がその集団であることの、
新たな苦難の原因となる可能性もあるわけです。
(ややこしい言い回しだなあ。)


変化というものは、何であっても怖いものなのですよね。
ので、ここでも「幸せ」を見なかったことにして、むしろ
慣れきった「苦痛」とともに集団を続けていく方が
簡単な訳ですが、この集団は「幸せ」を内包したまま、
さらに継続を選びます。



これは、苦痛を内包したままの継続よりも、さらに大変な事と
個人的には感じます。人間は基本、幸せであり続ける事が
苦手な生き物と思いますし、また、人間が感じる「幸せ」も、
基本的には移ろいやすいものですから、
この一瞬の「幸せ」の訪れが過ぎ去ったとき、
また何の歪みを生み出すとも限らないのですもの。
(まわりくどい言い回しだなあ。)


故に、この継続には相当な覚悟が必要だったろうな、と
思っています。意識していたにせよ、無意識の決定にせよ、です。



人は幸せでなければ、それを夢見ていることが出来ますが
「幸せ」になってしまえば、もうそれを夢見ることは難しくなります。
集団が目指す一つの目標にたどり着いてしまったようなもので、
あとは行き止まり、ということになりかねませんもの。
人間というものは欲張りですよね。


ですから、個人的に、幸せであり続けるということには、
相当の努力が必要と思っているのですが、その集団は、
それを選んでなお、今も、飄々と淡々と掴み取った幸せを
満喫している、ようにこの目には映るのですね。
個人的には、それがまたすごい。
一匹狼の目には、奇跡のように映ります。



……さて、ここで、もう一方の集団に話を移しますね。


こちらも、どのような経緯で具体的に何が起こったのかは、
本人たちのみぞ知る、ですが、こちらは、集団であることが
苦痛になったとほぼ同時に、その集団の終焉を選んだようです。


以降、その集団は二度とその集団となることはなく現在に
至るわけですが、何といいますか、その集団であることは、
その集団を構成していた人々にとって、ある意味、完成形だったと
考えられるのですね。故に、それ以降は、どうしても
セカンド・ベストを追い求める事になってしまったように、
傍観者には感じられてなりません。



また、言ってみれば、集団を終わらせた時点で、その集団で
あることの苦痛も過去のものとなったはずなのですが、逆に
過去にしてしまったが故に、彼らにとって、その苦痛は
生涯癒えないものとなってしまった、気がします。


もちろん、そんな全てを覚悟の上での終焉だったとは
思うのですが、時折、その集団の元構成員たちが、やけに
痛々しくこの目に映ってなりません。


芸術家にとって、感性がこれと認める相手と出会える事は
何にも代え難い事と思うのですが、同時にそういう相手と
共に居続けることは、何よりも難しかったりするのですよね。
意地やプライドが邪魔をし、共にあることの歓びを拒否させる、
といいますか。(分かりにくい言い回しだなあ。)



この集団は、二度とこの集団となることは無いと思うのですが、
もしもこの集団が、苦痛を乗り越え今もその集団であったならば、
どれだけ素晴らしいものが生み出されていたのだろう、と
想像する事があります。ただ、構成員の性質を見ると、
無理だったかな、とは思うのですが……。



ロマンチストの身としては、この構成員たちがこの世を
去るときに思い浮かべるものは、家族でも、集団の終焉以降に、
長い時間をかけて信頼関係を築いてきた別の仕事仲間たちでもなく、
人生のほとんどを共に過ごす事が無かった、ただ短い「完成形」の
一瞬を共にしたかつての仲間たちなのだろうな、と想像します。
切ないな、と。それはそれで、素晴らしい人生なのだけど。



心は何を求めているのかを知っているのに、決してそこに
手を延ばす事をせず、それから意志を持って目を背け、それに
代わる何かを探し続けている、という感じ。心が求めているものを
そのまま素直に認めることは、彼らにとっては格好の悪いこと
なのかもしれません。そして、そういう自らの格好の悪さを
認める事は、プライドが許さないのだろうなと思います。


確かに、求道者のような美しさといいますか、
未完成の美といいますかを、彼らから、
ひしひしと感じることがあるのですけれど……。


それは幸せから目を背ける強さ、とも言えるのだけれど、同時に
幸せと向き合う事が出来ない弱さ、とも言えるのですよね。
どこか脆さの漂う強さと感じます。



で、人はそういうものが好きですね。
不幸の匂いのするものが。他人の不幸は蜜の味、などと
言いますし、これは人間の特性かもしれません(笑)。


……嫌な言い方をすると、芸術で食べているものとしては、
この不幸の香りがある限り、自分を支える人は消えない、
という妙な安心感はあるのではないかしら。人は、不幸の
香りを芸術と結びつけて評価する傾向がありますものね。



もちろん、彼らを批判しているのではなく、自身にも
その傾向があるので、戒めの為に書いています。


色々潔く終わらせることは、裏を返せば、ひたすら
逃げ続けることでもあるのですよね。それを貫くには、
相当の強さが必要だけれど、その強さは、幸せであることを
受け入れられない、という弱さの裏返しとも感じます。
また、その弱さが、芸術家としては創作の源となり、
アイデンティティの根源となることも多いのだと思います。



実は、だからこそ、継続を選び続けてきた集団を、
個人的にはとても尊敬してしまうのですよね。
心から愛すべきもの、必要とするもの(芸術に携わるものに
とっての意味だけではなく、どんな職業の誰であっても、です)
に巡り会った時、それと向き合い続ける事は、実は、
格好悪く、みっともなく、恐ろしい事なのだと思います。


そして、その全てを認め、受け入れ、継続することを
可能にさせるものは、単純であっけらかんとした、
心の強さなのだと信じます。



苦痛を感じながらも継続を選び、苦しみながらも共にあり続け、
幸せが訪れた時にさえ、幸せを受け入れる事のリスクも
格好悪さも認めて、さらに継続を選ぶという強さ。
決して離れない、という、多分、この世で最も
難しい決断をひたすら実践し続けているその度量。



しかも、人は他人の幸福を見るのがあまり好きでは
ありませんから(笑)、芸術家としても、彼らは実は
かなりのリスクを負っているのですよね。
人は、幸せの香りを、凡庸さと結びつけて
評価する傾向がありますものね。


それでも、彼らが耐え続けた長い長い苦痛の年月が磨いた感性と、
それを乗り越えた強さ、幸せを受け入れ、
そうあり続けることに腹をくくったその潔さに、
人は惹き付けられるのだと思います。


それは、いわゆる「芸術」ではないように見られるかも
しれないけれど、実は、「崇高な芸術」よりも何倍もの
価値があるもの、と個人的には思っています。
もしかして、彼らという集団そのものが、人間の人生が
作り出す芸術品そのものかもしれませんよね……。



って、美化し過ぎかしら(笑)。
(というか、この曖昧かつ独断的自己満足的文章に、
ついてきてくれている方はいるのかしら(笑)。)



どちらにしても、継続する覚悟を決めた集団は強いな、
と思います。共にあり続ける覚悟、苦しみ続ける覚悟、
そして幸せであり続ける覚悟。何といいますか、素直に
ありのまますべてを受け入れ続ける覚悟、なのでしょうか。



これまでどうも逃げ癖のあるものとして
生きてきた身としては(苦笑)、敬服の一言。


ので、継続を選び続けた大先輩に深い敬意を表しつつ、
私も色々と覚悟を決めます(笑)。



皆さんは、どのように感じますか?



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