発展途上の価値観

いつの間にか、2015年も夏が過ぎてしまいました。
この裏ブログを書き始めてから4年が過ぎ、
この調子でいくと5年目もきっとあっという間。

 
6月末頃まではきちんと時間を追っていた気がしますが、
7月以降はもう何がなにやら(笑)。


年を重ねると時が過ぎるのが早く(感じられるように)なると、
日々実感するこの頃ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?



さて、ここ数カ月なんとなく常に考えているのが、
現在のこの国の「価値観」について。といいますか
「価値の基準となる感覚(?)とその欠陥」について。


一度、きちんとその辺りを分析し言葉にしておきたい、と
今年になってからずっと思っているのですね。
(何のために?とは聞かないでください。)
で、数年に一度とやらのシルバーウィークの今が
チャンス、と覚悟を決め潔くPCに向かっている訳です。



……と書き始め、やはり時間に追われて気づけば
既に10月の連休すら終わっていますが(苦笑)、
その辺りは潔く無視して、今回はまずざっくりと結論から。



ええとですね、こと現代の日本で、ものごとの価値を決める
基準となっている概念は、「共有」なのではないかと思います。
「大多数の評価がある=広く共有されているという事実」が、
安心感や信頼に直結するため、大変重要視されているのですね。


さらに、ものごとを「共有」する為の、理解の手段が、
「共感」なのではないかと思います。


が、現在、人々が「共感できること」の幅が非常に狭く、
故にものごとは「分かりやすく」なければならない、と。


で、この「分かりやすさ」は「とりあえず共有しておきたい」という
民衆意識にとっても大変都合が良く、なお良い、となるわけです。



以上を簡単にまとめますと:


1.ものごとは共有しなければ
    ↓
2.共有のためにとりあえず理解しなければ
    ↓
3.難しいことは分からないし
    =
4.分かりやすいものなら共感できるし
    ↓
5.分かりやすい=誰とでも簡単に共感を共有=最高!
    ↓
6.共感⇒共有⇒多売・有名=優良=正=安心
 ⇒社会的評価↑=価値↑
    ↓
7.何しろやっぱり共有=1に戻る



となりますでしょうか(短絡的すぎるかしら)。


個人的に、これが現在、日本という国の経済や民心を動かす
価値観の基本構造なのではないかしら、と思っています。
(大雑把すぎるかしら)。



で、早速、この構造の何が問題なのかを、ごく独断的に
細かく分析していこうと思います(笑)。


まず大元の「共有」という概念ですが、この根源にあるのは、
突き詰めれば、和の精神ということになる気がいたします。
これは、国民性として良くも悪くもいつでもどんな時でも
日本人の中にあるものだと、個人的には考えていますので、
まあ致し方ない、と取りあえずは納得。


ので、ここで問題なのは「共有そのものが価値基準となっている」
点ではなかろうかと思います。「何」を共有しているかは
重要ではなく「大多数と共有できているという事実」そのものが、
ものごとの良し悪しを判断する物差しとなっているのですね。



例えば、ええと、物品AとBがあったといたします。
で、Bが何かのきっかけで有名になり、世の話題を独占し、
もう誰もが知っている(=大多数との認識の共有)という
状況になったとしますね。


すると、Bは品質に係わらず「認知度の高いもの=良いもの」
と認定され、人々がこぞって買い求める存在となり、ついでに
社会的な評価も上がる、ということが起こりがち、と思います。


一方、AはBよりも高品質で、しかも同額で購入可能
だとしても、無名のまま(=誰も知らないもの)であれば
「二流品=あまり良くないもの」と認定されがちで、
一般には社会的評価も低いまま、となる気がします。
場合によっては、Bのさらに粗悪な模造品よりも
評価が低い、などということになるかもしれません。



が、その同じAにですね、突如海外から高評価が与えられる
とします。すると、それにメディアがこぞって飛び付き、
美辞麗句でこれでもかと世に紹介し、結果、晴れてAも
有名となって、一般に良品の認定を得ることとなるのですね。



ここでですね、Aの評価が変わることになった要因は、
知名度(=多数との共有認識の有無)」の変化であって、
「品質の良し悪し」の認識ではないことがポイント。
 


本来、価値を検討する上で、人々が着目すべきは質である
はずですが、そこは軽視され、物の種類に係わらず、評価の
基準が全て「知名度=認識の共有」となっているのですね。
故に、質とはまったく関係のないところで、
ものの「価値」が安易に揺れ動くのだと思います。



で、何故そんなことになっているかといいますと、
そもそも、人々にものの「質」の良し悪しを
自らで判断する力がないから、なのではないかしら。


もともと日本人は「共有=和を保つこと」に価値を見出し
たがる民族とは思いますが、現在の日本社会は、大衆に
「直感的に物の良し悪しを感じ取る肌感覚」や、
「本質を嗅ぎわける本能的な嗅覚」のようなもの、
「冷静にものごとを解釈するための理解力や思考力」などが、
圧倒的に不足している状態で、故に、社会全体が
「共有」という概念そのものを「価値基準」とせざるを
得なくなっているのではないかしら、と思います。



そう仮定すると、人々の、ものごとの理解の手段が「共感」
のみになっていることにも、妙に納得がいくのですよね。
ちなみに、ここでいう「共感」は、「解釈上の同意」
ではなく、「感情的同意」のことだと考えています。


そもそも思考力や判断力が不足しているわけですから、
判断は全て、感情的な「好悪」に委ねるしかないわけで、
という事は、今の日本は社会全体が、ものごとの判断の多くを
「理性や思考、解釈」もしくは「まっとうな直感」ではなく
「感情(好悪)」で行っている状態、なのではないかしら。


で、感情のみで理解できることには限りがありますから、
必然的に、人々は「分かりやすいもの」だけを
選り好みすることになるのではないかと思うのですね。


基本「流行りもの=価値がある」という構造ですので、結果、
「感情的に共感を得られて分かりやすい」が、現在の日本では、
最高の価値基準となっているのではないかと思います。


TVや雑誌等に氾濫するものは、ほぼ全てがこの基準で
選ばれていると言っても過言ではないのではないかしら。



また、「概念」も似たようなものと思います。例えば
「安価」、「平和」などの概念は、ごく短絡的に感情的に
日常生活のメリットと結び付けられ、「良いもの」と認識され、
それ以上の思考を伴わないまま世に蔓延している気がします。



さらに、共感による理解の範疇を越えた「難しい物事」
に対しては「基本的に理解しなくてもいい」という
分かりやすい理解の方法がきちんと世に浸透しており、
人々は必要に応じて:


1.分かる部分だけ理解しておけばいい
2.誰か偉い人に判断を任せておけばいい


を使い分け、最終的には


a.自分なりに分かる所だけを理解して、良い・好きと思う
b.自分なりに分かる所だけを理解して、駄目・嫌いと思う
c.偉い人が良いといったものを、すごいものとして鵜呑み
d.偉い人が悪いといったものを、ひどいものとして鵜呑み


あたりに落ち着き、更に免罪符として


一. 難しいものを理解するのは自分の仕事ではない
二.そもそも難しいことを言い出す人がわるい


あたりが用意され、やはり好き嫌い的感情論だけで何事も
判断できてしまうような土壌が、もうきちんと整備されて
いる気がします。


「分かりやすい」が周り廻って力をもつ構造ですから、
思考と本質とは徹底的に軽視され、思考力の無い者が
「分かりやすさ」で世論を動かせてしまう状況なのですね。
故に、何事も深く議論にまで進むことがなく、世の風潮が
浅薄になってしまっているのではないかしら……。



……と、ここまで思いつくまま綴って参りましたが、
価値観にまつわる現代日本社会の構造を、ごく簡素に
まとめますと、このようになるでしょうか:



 思考力の低下もしくは欠如=感情による理解
     ↓↑
 感情的共有による連帯意識=経済行動の共有
     ↓↑
 経済に効果のあるもの=社会的評価=影響力=価値



この構造が、スポーツ然り、芸術然り、政治然り、
社会問題然り、経済然り、食然り、で、すべてにおいて
現代の日本社会の軽薄さ、中途半端さを生み出している
元凶の一つなのではないかしら、と個人的には考えています。



多くの人々が、ものごとの本質を見極めることをしないので、
何か問題がおこってもその根本原因を突きとめることができず、
様々な議論の論点がずれ、そもそも議論が成り立たず、
適材を適所におくことが出来ず、的確な評価もできず、
目的への正しい解決法を見つけることもできず、
そもそも的確な目標を定めることもできず、結果、
世が薄っぺらく浮ついてしまっている、という感じでしょうか。


社会全体が、何事においても、ひたすら「分かりやすい
人気者・物」を追い求め、刹那的な経済利益を得ようと
右往左往している、ようにこの目には映ってなりません。



中でもこの傾向が顕著なのが、TVや新聞などのメディア
ではないかと思います。同意される方は間違いなく多いはず。


例えば、今、話題になっているラグビー
今回のワールドカップで大金星を挙げた日本代表ですが、
少なくとも開催地イギリスで大幅に評価を上げた理由は、
純粋に「ラグビー選手が素晴らしいラグビーの試合をして
大きなことを成し遂げたから」だと思います。
「スポーツ選手の競技における功績」に対し、人々は
敬意を表したわけですね。


一方、多くの日本メディアの、日本代表に対する評価は、
世界各国で評価・称賛を受けたことに対する評価であり
大金星というセンセーショナルな出来事で、一気に知名度
あげたことに対する評価に過ぎないと思うのですね。
有名になったものへの「媚」とでも言いますか……。
 

自国の選手たちが世界大会で良い試合をして結果を残し、
それが世界中から称賛を受けたことを、誇りに思い
囃したてるのはどこの国でも同じと思います。でも、
そこにはまず、「競技者としての功績への敬意」が
あることが大前提のはずですが、日本のメディアの多くは
そこを認識する感覚が欠落していて、囃したてること自体が
目的となっている気がするのですね。表面上は同じようですが、
裏にある「本質の捉え方」に大きな違いがあると思います。


ラグビーに限らず、突如有名になった競技の「昔からの
(=競技そのものの)」ファンが、そういった熱狂に
違和感を覚えるのは、「古参者の排他的な心理」だけでなく、
その熱狂が本質を無視した空騒ぎであることを、
肌で感じ取っているから、なのではないでしょうか。



また、どんな種類の才能の持ち主であれ、その才能に対して
日本のマスメディアがまったく敬意を示さ(せ)ない理由も、
「人気=有名である事」と「才能」とを混同した奇妙な
価値観が蔓延していること、そもそも「才能」の
何たるかを見極める力が、日本のマスメディアの人間に
欠落していること、にあるのだと思います。


ノーベル賞受賞者も、オリンピックメダリストも、WC優勝者も、
それぞれの分野で「神」と崇められているような人々も、大臣も
才能ある芸術家も科学者も、悲しいかな、有名であるという
時点で、「人気芸能人」と同列に扱われてしまうのですね。


さらに、自らのその異様性に日本のメディアはまったく無頓着。
ことTV番組などで、あまりにも不条理な非礼を目の当たりにし、
不快に感じた経験のある人も少なくないのではないかしら。



ひたすら「分かりやすい人気者・物」を追い求め、刹那的な
経済利益を得ようと右往左往し続けた結果、上面を舐める様な、
泡のような価値観が常識となってしまった人々の歪んだ感性が
昨今の日本のTVの、内輪受けによる番組作り、に繋がって
いるような気がします(廻りくどい言い方だなあ。)



小さな一例ですが、日本のメディアに浸透する価値観の歪みが
こういったところに凝縮されているのではないでしょうか。




こういった、メディアに代表される、日本社会の
「価値観の芯のなさ」は、危機意識をもって、
もっと声高に指摘されるべき、と思っています。


で、個人的には、この奇妙な現状が作られた原因も、
今後の解決策も、教育にあると考えているのですね。


よく日教組の歴史偏重教育が話題になりますが、それよりも、
人として考える核となる「思考力」を育てない教育が、
少なくとも戦後70年間は、この国で施され続けてきた、
ということの方が、大きな問題だと思うのです。


ですから、やはり教育の在り方は、早急に、きちんと
見直されるべき、と信じて疑いません。



その為にも、まずはぜひ、心ある教育関係者たちが


○戦後の教育の本質と、それが日本社会に与えた影響
○米国の価値観が日本社会に与えた影響
○そもそも日本という社会がもつ特徴


辺りをきちんと検討・分析し、その上で冷静に
取捨選択をして、日本の社会の新しい価値観の形成に
活用していって欲しいなと願ってしまいます。



例えば、何しろ、何もかもがポピュリズム(=人気)と
キャピタリズム(=お金)の観点から判断されて、
ものごとの本質が蔑ろにされるという欠陥構造は、
米国こそ立派な先進国。それが戦後、輸入(?)され
徐々に日本風にアレンジされ生み出されてきたのが、
もしかして、今回、長々と解明(?)を試みてきた、
現在日本社会の価値観の歪みの基なのかもしれません。


例えば、和の精神は行き過ぎると、突出した才能
(=和を乱すもの)を許さない偏狭さに繋がりかねませんし、
事を荒立てず丸く収めるという美点も、問題を指摘せず、
うやむやにしてごまかす癖、ということになりかねません。
年功序列や従順さは、判断力・実行力の無さにも繋がりますし、
忍耐、勤労、親切さ、献身など日本的な美徳がある一方、
閉鎖的、内向き、排他的なども日本的な特徴なのですよね。
こういった特質が、戦後の教育や米国的価値観と
奇妙に交じり合っていった結果、現在日本の
浅薄な大衆意識が生みだされたのかもしれません。


その辺の、様々な因果関係がきちんと解明できれば、
欠陥との決別も易く、新しい価値観も生み出され易く、
今後の教育にも生かし易い、ような気がしますが、
そう簡単にはいかないかしら(笑)。



そう言えば、話は少々飛躍しますが、そもそも
明治維新や戦後の復興を経て、日本は近代化された、
と考えられがちだけれども、実は、日本社会の、
例えば政治の基本構造などは、江戸時代末期から
何も変わっていないのではないかしら、と
自民党の動きを見ていて思う事があるのですよね。


日本だけではなく、その国の気候風土から国民性が生まれ、
その国民性から社会制度が生まれるわけで、それはその国が
その国である限り、あまり変わることはないのだと思います。


新しい政治体制や経済概念、価値観などは、たとえ国外から
輸入されたとしても、そっくりそのまま元々の社会に
適用させるなどできるわけがなく、時間をかけて
土着の性質と結びつかせていって徐々にその土地独自の
新しい性質として根付いていくのだと思います。
そして、それは簡単なことではないのですよね。



「敗戦」も「戦後」も「米国」も、現代日本社会の
価値観の歪みを生み出した原因の一端とは思いますが、
実は、明治維新以降、日本社会が、社会の体制や思想や
ものごとの概念の「土着」部分と「輸入」部分を整理し、
咀嚼して日本的近代化を図る、という作業をきちんと
行ってこなかったところに、案外、歪みの
大きな原因があるのではないかしらね。


何しろ、2百年を越える鎖国の後で突如西欧の価値観に触れ
衝撃を受けて以降、列強に脅かされ慌てて国の体制を変更
(=明治維新)し、その後各種戦争を経験、かつ駆け足で
西欧化を計り、ついでに敗戦もし、加えて戦後は、国の
存続の道を探りながら、米国という精神的には成熟と程遠い国の
価値観に翻弄されつつ、取り急ぎ経済的発展は果たした、
という激動も激動の直近160年を過ごしてきたわけですから、
色々混乱したままで思考的には訳が分からないまま、
取りあえずここまで駆け抜けてきたのだとしても、
これまでは、きっと仕方がなかったのです。


が、今後、西欧中心の世界の基準の中で更なる国際化を
図っていかなければならないのなら、日本という社会は
まだ、精神面では成熟しておらず、発展途上なのだと
いうことを、きちんと自覚すべきではないかと思います。
(東洋中心の基準になるならば話は別かもしれないけれど。)


もちろん、当面、国際社会の西欧中心の基準が変わるとも
思えませんので、ぜひ急いで、こと政治家の方々などが
発展途上を自覚して、日本の社会の精神的成熟に向かって
色々対策を練って動いてくれますようにと、
もう日々祈っています。(祈るだけね(笑))。


キーワードは「ものごとの本質」、「論理」と「理論」、
「達観」あたりの概念を、どうきちんと理解するか、と
日本的「情緒」や「実理」をどれだけ客観的に把握して、
現実と対比させ、かつ、活用することができるか、
ではないかしら……。


職種に係わらず、現在中堅どころにいる人々など、案外
そういう思考変換ができる世代と思うのですよね。
(日本特有の「庶務」に忙殺されていなければ、ですが。)


まずは、個々のレベルで小さな啓蒙があちこちに生じ、
それが徐々に広がっていって、新しい価値観の誕生に至り、
社会全体が成熟に向かって、一歩ずつでいいので
踏み出してくれますように……


などと、つらつらと考えて続けていた2015年な気がします。



……と、かなり長々と頭の中身を書きなぐってきましたが、
ここまでお付き合い下さった奇特な方はいるのかしら(苦笑)。


仮にいらしたとして「意味わかんねーし」という声が
聞こえてきそうなので、取り急ぎお付き合いいただいたことに
感謝しつつ、今回も書き逃げをしようと思います(笑)。



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