羅生門トラップとMr.Dickの目

新年度が始まったと思っていたら、もう7日……。
桜も満開ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。



さて、先日、黒澤明監督の「羅生門」という映画を
ふと思い出す機会がありました。


この映画は、ある出来事が、当事者・目撃者によって
それぞれ異なる解釈で説明される様を描いたもので、
記憶や認識は、基本、個々人の主観ごとに都合よく
書き換えられてしまうことを、改めて認識させられる
名作です。で、これを思い起こさせる出来事に、
今回、出くわしたのですね。



先月、非常に独特なものの見方をする人物と仕事をする
機会があったのですが、実は、ある出来事に対する
その人物の認識と周囲の認識との間に、大きな隔たりが
あるように見受けられました。
 

私の目には、その人物の認識が、事実とかけ離れている
ように映ったのですが、その人物自身は、自らの認識が
事実であるということに何の疑いも抱いていませんでした。


その人物には、目に見えるもの以外は認識しない、という
特徴があり、故に「疑う=迷う」ことがなかった
のだと思いますが、確かに「場の空気」、「言外の間」、
「言葉の裏の意味」などの目に見えないものを考えなければ、
その人物の認識は正しく、さらに今件では、私自身も
関係者でしたから、こちらが客観的に物事を捉えきれて
いないのかしら、と迷い、ふと羅生門を思い出した訳です。



今、冷静になって考えますと、「目に見えない要素」は
人間の社会には必ず存在しますから、やはりその人物の
認識は、事実の一端しか見ておらず、どこか全体の
暗黙の了解=常識からは外れていたのだと思います。
が、その人物があまりに迷いなく、自らの認識を
主張しますので、あれ?事実は何だったかしら?と
私を含め、周囲のほうが少々戸惑ってしまったのですね。


「周囲とその人物の認識の乖離」という、はっきりとは
目に見えない現象そのものが、もしかしてこちらの
都合の良いように物事を解釈した結果なのかしら、と
思わされてしまった訳です。羅生門にも描かれたように、
実際、そういう事も起こりえますから……。


論点は少々ずれますが、人はゆるぎのない自信と
対峙すると、まずはその確信に惑わされてしまう、
というのも実感した気がします。



で、羅生門と同時にですね、英小説家 ディケンズ
「デイビッド・カッパーフィールド」という小説のことも
思い出しました。この小説に「お頭(つむ)のおかしい」
Mr.Dickという人物が登場しますが、この、常識からは
少々外れた独特の感性を持ち、ものごとを見えるままにしか
捉えられないMr.Dickが、的確にものごとを見極める例として、
こんなエピソードが描かれています。


主人公の少年が、継父に売り飛ばされた先の工場から逃げ出し、
唯一の親戚、大叔母を頼るのですが、親権は継父にありますから、
大叔母は彼を呼びつけ、少年をどうすべきか相談するのですね。
継父は少年を憎んでいますから、いかに少年が悪者かを
並べ立て、自分がこれを引き取るならこの悪童に適切だと思う
扱いをする。もし、あなたがこれを引き取るなら、それきり
あなたの持ち物としてくれ、というような事を言う訳です。


大叔母はこの継父の言葉を信用してはいませんが、
自身の過去の経験から男性不信で、男の子全般を毛嫌い
していたこともあり、さあ、どうしようか、となった時、
Mr.Dickに「この子をどうすればいいかしら?」と聞くのですね。
Mr.Dickは、ダブダブの借り物の服を着ていた少年を見て、
「身体に合った洋服をつくってあげなさい!」と答えます。


この的外れの答えは、実は簡素に真実を捉えていて、
結局、大叔母は、Mr.Dickの判断に誤りなし、と少年に
身体に合った洋服をつくる(=引き取る)ことにします。



ここで、大叔母と継父は、目に見えないものの話をしていて、
Mr.Dickは、目の前のあるものの必要性を見ている訳ですね。


人の世は、目に見えないものとの戦い(?)ですから、
一つの出来事を客観的に判断しようとする時、主観に
影響され易い「目に見えないもの」を読み過ぎるよりも
目に見えるものだけを愚直に見ることも時には大切で、
そこにMr.Dickの存在意義がある、と。が、同時にあくまで
Mr.Dickは社会の中で奇人という立ち位置である、と。
そんなことが描かれていると、個人的には思っています。



今回、仕事で出会った人物の的外れな言動に困惑したのは、
その人物の言動が決して「虚」ではなく「事実」の一端を
その人独自の視点で別解釈した結果だったからと思います。
かつ、その独自性を、こちらが見落としかけたから、と。


で、今回の出来事を可能な限り簡素に整理した結果、
私は、羅生門トラップに嵌りそうになり、
今回仕事上で出会った人物は、良くも悪くも
Mr.Dick症候群だった、ということで落ち着きました。
……って、分かりにくいかしら(笑)。



ともかく、おかげで、いかに事実というものは無色透明、
もしくは玉虫色で、それに対する客観的な判断と
いうものが、いかに難しいかを、再認識させられました。


で、我々「普通」の人間が、目に見えない何かに
とらわれ過ぎて迷ったらですね、時には、目に見えるもの
だけを率直に見る事も有効、と改めて感じています。
そこに、シンプルな解決策があることも多いですから。


と、色々考えさせられた3月で、とても
面白い経験をしたと思っています(笑)。



ちなみに、ついでにこの経験を生かして?ですね、先の
サッカー代表戦について、書いてみようと思います。


人によって、一つの試合をどのように捉えるのかは
まちまちなのだなあ、と試合後のインタビューや
記事などを見ていてしみじみと思いましたし、
また、単純に目に見えるものも、それを捉える側の
感覚の違いで、また違ったものに見えるのだとも、
改めて感じました。



今回は、傍観者のこの目に映ったことを、感覚が素直に
捉えたまま、書いていこうかなあと思います。では早速。



試合は、選手たちの選手としての能力と、集団の現在地が、
そのまま素直に反映された内容だったと思っています。


個人的にサッカー選手としては奇妙な存在と感じている
本田選手についても、素人目には、その本当の
立ち位置というものが垣間見えた気もします。



あくまで、同選手よりも能力の高い選手が揃っている
日本代表という集団において、ですが、同選手は、
サッカー選手としては、単純に「ごく普通」で、
ひたすら意志の力と不屈の努力による模倣とで、
代表レギュラ―という位置にいる、と。


それだけならば「地味ながら努力家の模範的選手」
と評価されるはずですが、個人的に違和感があるのは、
その選手が、実を伴わないまま「エース」として
扱われていることです。ここが虚の部分と映るのですね。



そうなっている理由は、同選手が多分意志の力で、
意識的にか無意識にか、他の「エース級」の才能の誰かが
創りだしたもの(功績)を、自身のものとして横から奪う、
ということをしてきたから、と思っています。


で、今回の「エースとしての活躍」である連続ゴールも、
分かりやすくそうだったように、この目に映りました。
今回は清武選手から。個人的には、あれは、
清武選手が香川選手とイメージを共有しようとした
ことから生まれた一点で、本来であれば、
清武選手の得点だったのだろうなと思っています。



あれが本田選手のゴールになったのは、
これまでの流れからの不可抗力+香川選手の優しさ
のように見えましたが、実際のところはどうなのかしら。


英語にdeserveという語があり、相応しい、値する
といった意味ですが、同選手がその優しさを
受けるに値するかどうかは、個人的には疑問です。
……勿論、外からは見えない、集団内の関係性が
あるはずですから、傍観者がどうこう言うような
ことでは無いのですけれど(苦笑)。



得点出来る場所に走り込んでいるのですから、
得点を取る嗅覚が優れているという見方もできますが、
個人的には、それとはちょっと違い、むしろ
「活躍できそうな場」を嗅ぎ取る力に長けていると
思っています。なので、誰かがそれを作り出した時には
横から奪えてしまう、と。


勿論、それも能力の一つですし、それを支えるのが、
意志の力の特別な強さなのだと思いますが、これは、
周囲の協力なしに続けられる「活躍」ではない、
と思っています。



要は、同選手が突出してチャンスを生み出している
のではなくて、周りが作りだしたチャンスを彼が
奪っていることが多い、のだと思うのですね。
もちろん、そればかりではありませんが、多い、と。
同選手のポジショニングも、個人的には、戦術眼や視野の
広さから生まれているのではなく、そういう利己的な
嗅覚から生まれていて、周囲が同選手のために、うまく
バランスをとりカバーしている、ように見えています。


ので、周囲がそれをさせてくれる間は、日本代表では
特に際立って活躍できるように見えるのではないかしら。
が、それを単純に「活躍」と評価していては
色々歪が生まれるのだと思います。



ただ、集団の内部では、さすがに同選手の「実際の能力」と、
その「イメージ」が乖離していることは、徐々に
認識されはじめているのではないかしら。まだ、
どこか半々くらいの認識なのかもしれませんけれど。


また、同選手は、自己の問題点を集団の問題にすり替えて
話すように感じるのですが、もしかすると、純粋に
そうとしか認識できないだけなのかもしれません。
相対的・俯瞰的に物事を把握できるのも、また才能の
一つですから、同選手には、それがないのかもしれませんし。



故に、このまま本田選手自身が、全体と自己の問題の
違いを認識できないままの言動を続けると、集団内では
道化的な存在になっていくように感じます。すでに
若手の選手の中ではそういう認識になっているようにも
見受けられますし、今回、同選手と似たタイプの選手が
出てもいましたし、いずれにしても、今後はこの集団における、
これまでのような「活躍」は難しいのかもしれません。


今後、同選手がどこへ向かうのであれ、それは、同選手が
「deserve」するもので、色々正しくそうであるべき
とも思います。因果応報とでも言いますでしょうか。


それぞれの「実」に沿った活躍の仕方というものが、
最もそれぞれをまっとうに輝かせる手段と思いますが
今後、同選手がどのようになっていくのか、進む先は
大まかに二通りあるようにも感じ、個人的には
とても興味深いところです。マスメディアも、
実体の無いものを煽るのではなく、本当に評価すべき
本質を見つけだし、きちんと評価して欲しいなあ、と
思うのですが、高望みなのでしょうか(苦笑)。



……と、羅生門とMr.Dickの経験が、後半部分の記述に
どのように生かされたのか、まったく分からない内容と
なったところで、今回もさっさと書き逃げをしようと
思います(笑)。



Players