天賦の才

慌ただしくしているうちに、いつの間にか冬至に。


若い頃、一人で欧州にいたせいか、クリスマスを、冬至祭=
「非日常の祭り」=「年に一度の日常を客観的に見直すための機会」
として捉えているところがあります。


「欧州のクリスマス」は、自分が生まれ育ってはいない伝統ですし、
私の場合は、土地の人と結婚して「その地の生活」をしていた訳ではなく、
本当の意味で、その風習の「中」に入ってはいないのですね。
土地の人々にとって特別な意味を持つ「祭」の内側からの傍観者という
感じで、そこに自分なりの意義を見出そうとした結果かもしれません。


個人的な(ごく独断的な)取り決めですが、正月は「新年の計」、
クリスマスは「一年を振り返る機会」という割り振りでしょうか。



が、時間に追われると、どうもそんな訳にもいかず、
ここ数年はクリスマスが終わるたびに、「ああ、今年も何もしなかった、
来年こそ、きちんと時間を見つけて冬至を祝いつつ日々の反省を」と
思うのですが、このまま行くとどうやら今年も同じことを思いそうです。


……と書きましたが、せっかくギリギリ事前に気づいたので、今年こそ
きちんと一年を振り返り、日常を見直しつつ祝うことにします(笑)。



さて、近頃「天賦の才」について、考えさせられることが続いています。



私は、よく適材適所という言葉を使いますが、この言葉の裏にある
考え方は、誰も皆、それぞれに持って生まれた才がある、と
いうことなのですよね。で、その才の種類と質はそれぞれ異なる、と。


「才」というと、非日常の、いわゆる「すごい」ことだけが
想像されがちだけれど、個人的には、「普通の」日常生活の中でこそ
生かされる、様々な優れた「才」もあると考えています。


素晴らしい主婦や母になる才能を持って生まれ、その能力を
日々如何なく発揮している人もいるでしょうし、
優れた事務能力を持って生まれ、日々美しく事務をこなしている人も
いるはずです。ものを売ることに長けた人や教えるのが天職という人、
機械をいじっているのが生き甲斐、という人もいれば、
実は、清掃をするのが向いているという人も少なくないと思います。



自分にとっては当たり前すぎて、自覚はないかもしれませんが、
そういう人々も、自らの「才」を十分に生かしつつ、
日々を生きているのですね。
で、何の職種・立場であっても、そういう人々の生活は、
総じて充実しているのではないかと思います。


人の才はそれぞれで、それぞれに違った発揮の仕方があるのです。



重要なのは、自らの才に適した場にいるかいないか、で、
それが、その人の「人生の質」を大きく左右するのだと思います。


ふと日々を振り返った時、ああ、不満と羨望ばかりだなと
感じた人は、とりあえず自分の頭を使って自分自身のことを
見極めてみてはどうでしょう。


多くの場合、自らや自らの才について深く考えたことがなく、
流されるまま、自分の才とは無関係の日々を送っていて、
本来持っているはずの才を無駄にしているので、
日々に不満と他に対する羨望が生まれているのでは
ないかと思うのですね。


最近は、特にそういう人が多いように感じます。



自分にどんな才能があるのかを、一度も考えたことがないのなら
一度じっくりと自問自答してみる価値はありますし、
多くの人の場合、実は比較的簡単に手の届くところに
自らの才を生かせる場があったりするものです。


それを面倒がって、考えることを拒んでいたり、
憧れや羨望や欲が勝って、自身で自身の才を認めようとしないと、
その人の人生の質はかなり下がってしまうのではないかしらね。



……ただですね、同時に、自らの才に適した場所にいることが
できるか否かは、運の要素も少なからずあって、
特に、日常生活では生かせないような特殊な「才」に恵まれた
人の場合は、余計にそうではないかと思うこともあります。


例えば、ええと、深い意味もなく思いつくままですが、
「乗馬」の才に恵まれた人がいたとして、
それは日本初のオリンピック金メダルを取ることができる
くらいの才能だとしますね。が、「乗馬」という一般的ではない
競技に出会えなければ、その才能は使われることなく
その人は、自分には何の取り柄もない、と思いつつ、
何か別の仕事で、もしかすると冴えない存在として
人生を過ごしているかもしれません。
もったいないようですが、これも運。


ですから、実は自らの才を知り、その才を存分に生かせる場に
いることができる人は、本当はとても幸運なのですよね。



……と、ここまでが一区切り。



話題は少し変わります。上記のように、個人的には、
誰にでも持って生まれた才があり、その才能に貴賎はないけれど、
種類と質とサイズの差はあると思っています。


で、「多くの人の心の琴線に触れることができるほどの才」
というものはやはり貴重で、素直に「素晴らしい」と
認められ、敬意を表されるべきものと思っていまして、
個人的に、これを「天賦の才」と呼んでいます。


……いや、正確に言いますと、どんな能力であっても
天から与えられた才なのですが、より希少で影響力のある能力は
それに伴って与えられた責任もより重いということで、
区分けして考えておきたいのですね。



で、です。文化的な事情もあるかもしれませんが、
特に現在の日本の価値観では、この「天賦の才」が
あまり認識・評価されない傾向がある気がします。


原因は、「努力によって得られるもの」が「才能」よりも
尊ばれる傾向があるから、でしょうか。


日本の最近の風潮で、マスメディアなどは安易に、
「天才ではない、努力の天才だ」など、「努力」方面ばかりを
尊ぶ報道の仕方をしている気がします。
もちろん、努力は認められて然るべきですが、努力で
得られるものは手段と技術であって才能ではありませんから、
「天賦の才」も決して軽んじられるべきではないと思っています。



そもそも、向上意欲のある人は、才の質や種類に関わらず
誰でも努力をするのです。


個人的には、天賦の才を持つ人こそ、
与えられた才能を無駄にしないために、
人一倍の努力をすることを課されているものと思います。


もしかして、日常に神の存在があると、解り易いかもしれません。
自分が得ようと思って得たのではなく「神から与えられた恩恵」
ですから、通常の人よりも努力をして磨いていかねばならない、と。



で、身も蓋もない言い方をすれば、そこそこの能力に恵まれた人が
努力をしてたどり着ける位置と、天賦の才がある人が
努力をしてたどり着ける位置には、大きな開きがある、と。


天賦の才を持ち、かつ努力をする人々は、世間に
通常ではたどり着けない先を見せてくれる存在ですから、
貴重なのです。故に、人の心の琴線に触れるのです。



日本社会は、突出するものを嫌う、などとよく言われますね。
学者ではありませんので、真偽のほどはわかりませんが、
今の日本は、「平均値の存在の中から、人一倍の努力をして、
平均よりも一歩二歩だけ前に出た」ような人々が大好きだなあ、と
思うことがあります。


で、平均からかけ離れた天賦の才は「努力して得たものでない才」
の持ち主として、軽んじられてしまうといいますか。


それと、話をややこしくしているのが、「才能」は特別な人にだけ
あるもの、という認識だけは一人歩きしていて、平均値から数歩
抜け出た存在に対しては、闇雲にその才能を褒め称えるのですね。
大抵の場合、それは「天賦の才」の部類ではなく、
処世術の才に長けているだけと感じるのですけれど……。


この「才能=努力の度合い=処世術」の認識構図がある限り、
国内で稀有な才能があまり育たないのも、わかる気がします。


稀有な才能が、海外で育ちやすいのは、単純に「天賦の才」を
それとして素直に認める土壌があるからではないでしょうか。



……和を重んじたり、努力を怠らないことを尊んだりと、
日本には日本の価値の良さがありますので、一概に何が正しいとは
言えないのですが、個人的には、よく分からない「才能」が
過大に評価されるのを見すぎて、時折、天賦の才ってなんだっけ?
と頭の中が混乱することがあります。


(今現在、大変混乱していますので、この文章も支離滅裂、
と言い訳をしておきます(笑)。)



ただですね、まずは、人が
「人には誰にでも与えられた才がある」ときちんと認識できていて、
「ただし、才には其々質と種類とサイズがある」と納得していて、
「其々の才には、其々適した活躍の場がある」と理解していれば、
「其々の才を、其々の場で生かすために努力する」のであって
「努力が与えられた才を凌駕できるわけではない」と分かる訳で、
そうなれば、特別な恩恵を受けたであろう誰かの才も、
素直に価値あるものとして、受け止めることができるのでは
ないかと思っています。かなりの三段論法ですね(笑)。


が、せっかく本日は冬至ですので、この認識が
広く社会に定着してほしいな、と願っておこうと思います。
冬至にそんな願掛け機能があるかどうかは不明)。


神の恩恵を受けた人は、人々に恩恵を与える存在でもありますから、
大切にして、恩恵をこちらにも沢山齎してもらわないと損ですし。
また、もし名が世に知られた天賦の才でしたら、自らの才にあった
場を探し当てることができた幸運な人ということですので、
その幸運具合を撒き散らしてもらった方が、世が明るくなりますし。



ちなみに、何が天賦の才だっけ?と混乱した際の
特効薬は、実際の天賦の才を見ることです。


個人的には、今年の天賦の才は、サッカーの香川選手。
怪我の影響で、近頃は中々試合に出ているのを見る事ができませんが、
出場して見事なプレーをすると、やはり見ている側の気分も高揚します。
活躍が、万の人々の日常を明るくする、というのも天賦の才の一つ
ですよね。いや、幸運な人がまき散らす明るさ、でしょうか。
もちろん、本人は、人一倍大変なのだと思うのですが……。


今年最後の試合に出場していましたが、無理をして
怪我を悪化させていませんように。



と、ひとしきり書きなぐったところで、
今回もさっさと書き逃げをしようと思います。


皆さんも、どうぞ良い冬至の晩をお迎えください。


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