'Humour'

あっという間にオリンピックが過去のものに……と思っていたら、
2012年そのものが、残すところあと4か月となっていることに
気付いてしまいました。早いものですね……。


個人的なことですが、今年はどうも物事が予定通りに進まない年で、
年間スケジュールを眺めては、なんだかなあ、とぼやくばかりです。


が、さすがに夏も過ぎると、どうやら今年は物事が予定通りに
進まない年なのだなと、そろそろ潔く認め始めるのですね(苦笑)。


という訳で、最近では、予定通りに物事が進まない腹立たしい
日々を、楽しくのびのびと過ごすようになっています(笑)。


皆さんはいかがお過ごしですか?残暑を楽しんで(笑)いますか?



さて、ここ一カ月、ニュースは不協和音ばかりですが、
中でも、外交問題は深刻そうですよね……。


外交が拗れる危険性は、随分以前から指摘されていますし、
こと、ここ数年は、もう現実となるのを待つばかり、というくらい、
起こるべくして起こった問題、と考えている方も多いと思いますが、
個人的に、この不安定な状況に拍車をかけてしまったのが、先月発表された
「国会原子力事故調」の報告書なのではないかしら、と思っています。



実は、先日、やっと暇を見つけて、インターネットに発表されている
ダイジェスト版の「はじめに」部分を読んでみたのですね。


……で、ウーム、と思わず唸ってしまいました。なにしろ
「調査報告書の序文」というよりは、「国内の利害や
感傷に気を使った弁解文」という印象の文章なのですもの。
(読んでみた、という方はいるかしら……どう思われましたか?)


表現がとても日本的で、色々な方面に気を使いつつ、でも婉曲的に、
少しは書きたいことも書いておいた、という感じ。で、それを
直訳してある英文は、この文章を書いた目的が分からん、という感じ。


ごく大雑把に説明しますと、近代日本の社会・文化的特質や欠陥を
具体例を上げて指摘し、それが今回の事故の大きな原因の一つだ、
と述べているのですね。で、ダイジェスト版にざっと目を通した限りですが
続く本文も、客観的な報告というよりは、主観的な自己批判という印象。



これが国内向けというのならばまだしも、日英両文で国外の読者にも
発表すると決めたのなら、もう少し何とかならなかったのかしら、
と、ついつい考えてしまいます。


何しろ「危機」の仮想が自然災害とはいえ、「日本社会は、過去50年で
たいへん腑抜けになっていて、危機管理すらできていませんよ、
民間も政府も社会全体もですよ、原子力事故は、その結果ですよ」と、
国内の権威が潔く(?)実例紹介付きで認めているようなものですから、
利害関係に直接かかわる隣国にとってみれば、当然
「……日本は無防備だ。ヨシ、揺さぶるか」になると思うのよね。


しかも、純粋に今回の「原子力事故」の真相に関心を持つ諸外国の人々に
とってみれば、冷徹な第三者の目からの「事故の詳細と原因の究明報告書」
を期待していたはずが、何だかよく分からない社会学や集団心理学や
日本文化学のお話に摩り替っていて、事故を起こしたくせに、問題に
まっ直に取り組まず、お茶を濁そうとしてるのか?と見えて、
なんて無責任な国だ、と日本に対する態度は冷たくなる気がするのよね。



勿論、国内では、事故をあらゆる視点から調査・検討した報告書は
有意義で(これは、そうでもないけど)、それを基に、今後も大いに
日本社会の問題点を議論すべきと思います。(されてないけど。)


でも、国外に向けての報告書を兼ねているのならば、
現在知る限りの事故現象の詳細と、それに対して実際に行った対策、
その効果と詳細を、冷徹に明記するだけで良かったと、個人的には
思うのですが、いかがなものかしら。


それを、日本国内の政治や社会の劣化を、国際社会に
アピールする報告などして、どうするのかしら……。


心から不思議でなりませんが、ただ、どうも日本の知識人という人々は、
「世界の中での『自己の立場の認識』や『責任の取り方』」を的確に
把握して行動に移すことが、なぜかとても下手なのですよね……。
(マスメディアもね……って、何様の意見かしら(笑)。)



そういえば、近頃、隣国の「国内の独自の価値観に基づいた独特の行動」を、
異様だとする意見を、インターネットなどでもよく見かけますが、
方向性は違っても、似たような「自国の価値観の押しつけ」を
日本もやっているのではないかしら。勿論、どの国も、
多かれ少なかれ自国の価値観を押し通すことはやっているのだけれど、
悲しいかな、日本の、その「価値観」というものは謙虚=自虐と思います。


で、自国の価値観だけに振り回されて、国際社会の中での潮の流れを、
結局自国の不利になる方向に見誤ることが多々ある、気がします。
勿論、隣国のものとは、まったく質が違うと思うのですけれど……。


人の振り見て我が振り直せ、などと言いますが、この機会に、
日本もですね、国際社会での立ち居振る舞いの、上手な
国際化(?)を図ってみても、良いのではないかしら。



何しろ、日本の人々は、良くも悪くも「清廉潔白」が好きなのですよね。
近頃は、価値観が単一化されて、よけいにそうと感じます。
が、やはり、海千山千、という古き良き素敵な価値もですね、しっかり
評価していかないと、国がなくなりはしないかしら、と心配です。
何しろ、海の向こうには、「清廉潔白=おバカさん=カモ」
が常識、と考える人々も、多くいるはずですものね……。


そういえば、外交問題に限らず、今、国内で話題のいじめ問題や、
原子力反対運動や、猫も杓子も責任問題を語る奇妙な熱も、
少々歪んだこの「清廉潔白病」が蔓延している故ではないかしらね。
全てにおいて、清廉潔白でなければだめ、と、ちっとも清廉潔白でない
人々が喚き散らしているのですね。(勿論、自戒を込めて、です。)



個人的にはですね、これはhumourの欠落からきている、と考えています。
'Humour=ユーモア'は、機智ですとか、洒落、洒脱な笑いなどと
訳されますが、成熟した社会や人格から生まれるもので、
難しく深刻なものごとを、粋に笑い飛ばし解決する能力、と思います。
「自らの信じる事」と「反対の意見」とを、言葉の裏で器用に曲げて
繋げてしまう、小気味良い悪智恵といいますか……。


何しろ、価値が一面的ではつまらないのです。色々な価値が重なり合って
Humourを生み出すと思うのですね。綺麗やカッコいい、楽しいだけ、
というのは意外と簡単。そして薄っぺらいものなのだと思います。



故にですね、話は次々に飛びますが(笑)、そろそろ、日本は
米国的価値観から脱却しても良いのではないかしらと思っています。
どうも、かの国を崇めて、無条件でその価値観を受け入れる風潮が
この国にはまだあるけれど、米国という若い国が持つ価値観は、
一世は風靡したものの、やはりまだまだ浅く一面的なのですよね。


Jokeジョークで大笑いするけれど、Humourユーモアは
まだ存在していないような……。勿論、米国には米国の
美徳が多くあるはずですが(何とは聞かないで下さい)、
そういった美徳は、個人的には、日本という国の風土、
国民性にはそぐわないように感じます。



で、ですね、現代日本の成熟した価値観を模索してく上で、
「江戸」の文化の成熟度はもっと評価されるべきと思っています。


どうも、「昔」は「今」よりも未熟なはずという考え方が、
まだまだ元気に存在していますが、取りあえずは、
明治維新大正デモクラシーの意義と評価や、敗戦の持つ意味、
あたりから、もう一度大胆に考え直す時期なのではないかしらね。



と、そんなことをつらつらと考えていて、そういえば、ふと、
Sherlock Homes シャーロック・ホームズ」から、以下の一文を
思い出しました。「The Greek Interpreterギリシャ語通訳」の話で、
ホームズが、兄マイクロフトの事を初めてワトソンに話す場面です。
兄は自分よりも優れた洞察力を持っている、と説明するホームズに、
そりゃ君、謙遜だよ、とワトソンが返しますが、それに対して
ホームズが笑いながら答えるところです:



   I cannot agree with those who rank modesty among the
   virtues. To the logician, everything should be seen
   exactly as it is, and under-estimate one's self is
   as much a departure from the truth as to exaggerate
   one’s own power.
   (ざっくりとした意訳:謙遜を美徳の一つと考える輩には賛成
   できんね。論理を重んずるものにとっては、全てのものごとは、
   事実そのままに捉えられるべきだ。自己評価を低く見誤ることは、
   己の力を過信するのと同じだけ、真実から遠ざかることになるのさ。)



国際社会ではですね、日本の品格を守ることも勿論必要ですが、
その上で、上記のような思考回路を出発点に、「海千山千」的能力を
駆使して上手に世渡りをしてもらいたいなあ、と願うこの頃です。


ともかく、一刻も早く、まともな判断と的確な行動をすることができる
真っ当な政治家が、堂々と活躍できる状況が訪れますように。


と、相変わらず訳のわからない長文になった所で、今日も書き逃げを(笑)。
ごめんなさい!



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